[HOME]  >  [神社記憶]  >  [北陸地方]  >
メニューを表示する 表示用ページ


風速神社
かざはやじんじゃ
福井県大野市大矢戸28字住吉4  Zenrin Data Com Maps display !!


十六菊

式内社 越前國大野郡 風速神社
旧村社

御祭神
住吉三神

福井県大野市にある。
越美北線(通称・九頭竜線)北大野駅の
北2Kmほどの大矢戸に鎮座。
240号線から、矢戸川を越えた場所。
丘の麓、道路わきに南東向きに開けた境内がある。

境内入口の鳥居右手には、
「延喜式内社 風速神社」と刻まれた立派な称号標。
鳥居左手には、由緒を刻んだ石碑。
この規模の神社にしては、構えが立派なのは
氏子の方々の崇敬の深さを示しているのだろうか。

境内は、最近整備された雰囲気で
木々も少なく、砂地の地面。
これから歴史を積み重ねていくのだろうと
期待しながらの参拝。

境内中央の社殿も新しく、
石碑によると平成十二年の新築。
社殿の前面は、雪除けのためか
ガラスで覆われている。

創祀年代は不詳。

式内社・風速神社の論社の一つ。

『越前国官社考』によると、
式内社・風速神社は大矢戸村に鎮座の住吉大明神。
手向う兵舟を風の速さで転覆させる大神であるところから
風速神社と称するという。

当地に伝承されている『略縁記』によると、
御祭神は大矢戸村の奥山に陣を構え、賊徒を平定。
後、河内の野田ノ庄へお移りになられる時、
村人が別れを惜しみ嘆き悲しむので、
御祭神が自ら姿を彫り、村人へ与えたといい、
元文年中、領主に提出した書類には、
御神像は、丈高一尺五寸の木造であると記されている。

往古、大野地方が沼であった頃、
現在よりも50mほど高台に祀られており、
境内入口の櫻の大木に船を繋いでいたという。

石碑によると、神紋は「十六葉菊」とあるが、
社殿の屋根には、十六弁の菊紋。
多分、葉ではなく花弁だだろう。

境内の中央にポツンと社殿が建っており
境内社などは見当らなかった。


境内入口

境内

境内

社殿

境内


式内社 風速神社由緒
鎮座地福井県大野市大矢戸二拾八字住吉四番地
祭 神住吉三神表筒男命
中筒男命
底筒男命
神 紋十六葉菊
例 祭九月十四日
境内地参百七拾五坪
主要建物本殿
拝殿
木造 瓦葺 流造
木造 瓦葺 切妻造
風速神社の創立年代は不詳であるが延喜式神名帳(延喜五年〜延長 五年 九〇五〜九二七)に記載の大野郡九座中の風速神社は当社である 越前国官社考(安政四年一八五七)に風速神社の御祭神は大矢戸村に 鎮座の住吉大明神と申し上げる 三韓を御征伐なされた神と申し 上げるより手向う兵舟を風の如く速さで転覆させる御威力の大神で あるから風速神社と称え奉ったのであると記述してある
元文年間(一七三六〜一七四一)に領主に提出した書状に住吉大明神の 社は二尺五寸四方で大矢戸村が管理している御神像の丈高は一尺五分で 木造の座像である 鳥居は木造で高さ七尺一寸巾六尺内法の壱基である 宮地は一反三畝二歩で御除地である云々と記してある
御神体の由来は略縁記(年代不詳)に住吉大明神が大矢戸村の奥山に 陣を構え御逗留になって暴徒を平定された後 河内の野田の庄へ御移りに なられる時に村人が別れを惜しんで嘆き悲しむので住吉の神は自らの 姿を彫り村人に与えられた 村人は氏神として御祀り申し上げたとある 往古大野盆地が沼湖であった頃 当神社は現在地より五十米ほどの 高台にあって境内地の入口の櫻の大木に船を繋いでいたが中世の頃に 今の所に本殿を御移し申したと伝えている 従って平成十二年の御社殿 新築は三度目の鎮座地移転の御遷座である

−境内石碑−



【 風速神社 (大野市)(印刷用ページ) 】

ボーダー




no index