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國中神社
くになかじんじゃ
福井県越前市中津山町1−23  Zenrin Data Com Maps display !!




輪宝

式内社 越前國今立郡 國中神社二座
旧郷社

御祭神
越國靈彦神 越國靈姫神
合祀 天照皇大神 松葉大神

福井県の越前市にある。
JR鯖江駅の東5Kmほどの中津山町に鎮座。
鞍谷川の西側、105号線から少し入った場所。
参拝した時には気付かなかったが、
地図を見ると、中津山公民館がすぐ側にあるようだ。

境内に入った場所は広場になっており、
奥の階段を上ると社殿のある境内。
参道階段脇には、ブランコなどが置かれているので、
普段は子供達の遊び場になっているのかもしれない。

社殿には雪囲いの木枠が設置されている。
冬になれば、テント地のシートかトタン板なので囲われるのだろう。
拝殿の後方に、流造の本殿。
もちろん本殿にも木枠がある。

境内の右手の斜面に石造の層塔がある。
もとは中津山と国中の境界にあり、「法印様」と呼ばれていたが、
明治時代に当社境内に移転されたもの。
鎌倉末期から南北朝時代の作と考えられ、
現在は四層(117cm)だが、かっては七層か九層だったらしい。

創祀年代は不詳。

式内社・國中神社二座に比定されている古社。

元は、当社の北西にある三里山の山上に二座が鎮座しており
七堂伽藍を具備し、奉仕の社僧も多かったという、
当郡一の大社であった。

現在は、二つの神社にわかれており
一社が当地中津山の国中神社
もう一つは400m離れた国中の国中神社

両社は、旧南北中津山村に位置しているが、
中津山とは、「中ツ山」。
当地が越前国の中央にあるため、社号は国中神社という。

また、往古より上宮外宮と呼ばれており、
当社が上宮にあたる。

神紋は、五三桐紋。
境内の神馬像に付けられていた。
ただ、『福井県神社誌』には、五三の桐と八つ輪宝と記されている。
参拝時に、輪宝は確認していないが、
写真で確認すると、社殿の屋根に
それらしい丸い紋がついているような気がする。

ところで、神馬像の横に、武将の騎馬像があるのだが、
どなたの像だろうか。越前で有名な武将なのだろうか。


境内入口

境内

鳥居

参道階段

社殿

社殿

境内

社殿

本殿

神馬像と武将の像

騎馬像

層塔


式内國中神社沿革
祭神こしのくにたまひこのかみ
越國霊彦神
あまてらすすめおおみかみ
天照皇大神
こしのくにたまひめのかみ
越國霊姫神
まつばのおおかみ
松葉大神
例祭十月五日
由緒沿革
 國中神社は、延喜五年(西暦九〇五年)醍
醐天皇の勅命で編纂された「延喜式」神名帳
に載る式内社で、その頃既に存在していたこ
とが証明される歴史ある神社である。
 社伝によれば、当社は越前の中央にあり、
越の中山と称し、和名抄に中ツ山の郷とある。
祭神は越國の御霊彦姫の二柱を祭り、延喜式
に國中神社二座とあり、往古より上宮外宮と
分け祀り、当社は上宮の一座であった。往古
は字中山と称する山上に鎮座され、その状況
は七堂伽藍を具備して奉仕の社僧も数多く数
箇の坊舎があったと伝えられる。中でも別当
職正官坊は禁裏より代々法印の位を賜り、そ
の裏付けたる法印の石造り層塔が今尚残り、
現在この宮の西方に建立されている。天正年
中兵乱によって、壮麗な大社は廃絶 その後
現座の地に鎮座された。
 明治十二年十一月村社に列せられ、同十四
年三月郷社に列せられた。明治四十年八月福
井県の許可を得て境内神社 松葉神社祭神松
葉大神、神明神社祭神天照皇大神を合祀した。
明治四十四年八月福井県告示第一三〇号を以
て神饌幣帛料供進神社に指定された。


−境内案内板−



【 国中神社 國中神社 (越前市中津山)(印刷用ページ) 】

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