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益救神社
やくじんじゃ
鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦277  Zenrin Data Com Maps display !!


五七の桐

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式内社 大隅國馭謨郡 益救神社
旧県社

御祭神
天津日高彦火々出見命(山幸彦)
配祀
大山祇命 木花開耶姫命 塩土翁
豊玉彦命 豊玉姫命 玉依姫命

屋久島の北東部、宮之浦港にある。
鹿児島からは、フェリー・高速船・飛行機の便。
僕は飛行機を利用し、40分ほど。空港は宮之浦の東10Kmの位置。

屋久島の中央部に位置する、
宮之浦岳(1935m)・永田岳(1890m)・栗生岳(1836m)の
三嶽信仰のより島内各所にその遥拝所が設けられており、
各村に益救神社が存在したが、現在は、当社と原集落のみ。

社名の「益救」は、現在では「ヤク」と読むが、
以前は「マスクヒ」「スクヒ」とも読んだ。
また、以前は「一品宝球大権現」という呼名もあった。
当社の神が、竜宮城より一品、宝珠を持ち帰った故事による。

宮之浦岳山頂に奥宮があり、当社は里宮にあたる。
三嶽の周囲の山々に遮られ、残念ながら当地からは、宮之浦岳は見えない。
宮之浦山頂登山は往復10時間の行程。
早朝5時に出発しても、宿へ戻るのは夜になるとのことで、
今回は、登らない。有名な縄文杉は、高塚山山頂部にある。


宮之浦港から宮之浦岳

『式内社調査報告』に以下の説がある。
島内各道路の道標には、塩土翁を祀ったものが多い。
屋久島は、九州第一の高山を有し、南方航路の道標。
航路標識としての機能は当然備えている。
航路標識、澪標(みおつくし)の標(つくし)がツクイと変化し、
スクヒとなったのではないか。

また、宮司からは、屋久島は女性の陰部の象徴であり、
産霊の神であるという話をうかがった。
たしかに種子島と並んだ形は女性を連想させる。面白い。

宮之浦川に沿った道路脇に鳥居がある。
境内はかなり広い。なぜか青森のネブタなども飾られていた。

境内には、穴の空いた石や、亀甲のような石、
仁王像などの町指定文化財が置かれている。


境内入口

境内

社殿左手前の境内社

境内の仁王像

社殿右手前の境内社

境内

拝殿

本殿

盃状穴のある石

亀甲のような石と手水鉢

式内益救神社由緒記
御祭神: 天津日高彦火火出見尊
(山幸彦)
配祀: 大山祇尊 木花開耶姫尊
塩土翁尊 豊玉彦尊
豊玉姫尊 玉依姫尊
由 緒: 醍醐天皇の御代約千百年前勅 名により国内の有名な神社を 調べた台帳に登載された神社 三千百三十二座の中の一座で 掖玖島(屋久島)に名神として 益救神社が記載されておりま す。是を式内社と言います。
益々救って下さる神様「救の宮」 又掖玖島が龍宮であるとして 「一品宝珠大権現」として広く 尊崇されております。
例 祭: 四月十日

−境内案内より−

宮之浦岳に登らない代わりに、当社から2Kmほどの所にある、
奥宮遥拝所「牛床詣所」へ行ってみた。
当時、山は女人禁制であったため、
女たちは男たちをここまで送り、そして、ここで出迎えた。
男たちは、山頂部にだけ咲くシャクナゲの花を、
女たちのために土産として持ち帰った。


牛床詣所入口、扁額に大山神とある

牛床詣所、大山祇神の祠

多くの祠や仁王像

牛床詣所 うしどこもいしょ
 上屋久町指定文化財 平成元年四月一日指定
 文化財分類 記念物  文化財種類 史跡

 屋久島は、宮之浦岳をはじめとする険しい山々が多い ため、古くから「山岳信仰の島」でした。
 ここは、山岳信仰の重要な行事である「岳参り」の 折りに、家族が山に詣でた男たちを出迎えた場所です。 女人禁制のため、岳参りに参加できない婦人や子ども たちは、日ごろここで遥か山奥の御岳を拝みました。
 詣所は、いわば里における信仰の聖地であり、詣所 内には、厄病退散や大漁祈願、安全祈願などさまざま な石塔が、六十余基ほど奉納されています。
 中央にある石塔は、信仰の神である「彦火々出見尊(山幸彦)」を表わし、正しくは「一品宝珠大権現」と 示すものが「一品法壽大権現」と刻まれています。 このことは、法華宗(日蓮宗)の屋久島布教により、 古来の信仰から、法華宗が混合した形の信仰へ移り変 わったと考えられます。その石塔の銘文を読むと、法 華僧も厄病退散のために、祈願をしていたようです。
牛床詣所は、屋久島の山岳信仰の実態と、石塔の銘 文や形状から各時代の社会状況を示すものとして、民 族的、宗教的に貴重な史跡となっています。

−案内より−



【 益救神社(印刷用ページ) 】

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