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白鳥神社
しろとりじんじゃ
長野県長野市松代町西条字東六工3674  Zenrin Data Com Maps display !!


真田銭

旧県社

御祭神
日本武尊
貞元親王 貞保親王
武靖大神(初代松代藩主・真田伊豆守滋野信之)
眞田信政(二代) 眞田幸道(三代) 眞田信弘(四代)
眞田信安(五代) 眞田幸弘(六代) 眞田幸專(七代)
眞田幸貫(八代) 眞田幸教(九代) 眞田幸民(十代)

長野県長野市にある。
上信越道・長野I.C.の南3.5Kmほどの松代町西条に鎮座。
388号線を南下し、青垣公園付近で東へ入ると警察学校があるが、
境内入口は、警察学校の裏側(南側)。
ノロシ山(844m)の北麓に境内があり、入口は北向き。

鳥居の右脇に「白鳥神社」と刻まれた社号標が立っており、
約300mの参道の坂道を上る。
警察学校の裏にあるので、セキュリティーは万全だな、
などと考えながら登っていたが、
この300mが、運動不足の身体にはしんどかった。
参道には、30mごとに杭があり、その杭を数えながら登って行く。

参道を上りきって左を向くと、斜面に西向きの社殿。
参道をまっすぐに進むとノロシ山登山口がある。

境内には朱の両部鳥居が立っていて、階段を上ると惣門。
垣に囲まれて拝殿があり、拝殿の後方、高い場所に本殿がある。
残念ながら惣門が閉まっていたので、
社殿に近づくことは出来なかったが、拝殿は瓦葺入母屋造。
本殿も瓦葺で、大きな流造のような感じだった。

社殿は大きくて荘厳なのだが、
あまり参拝客の来るような神社ではないのは、
あの参道のせいかもしれない。

社伝によると、寛保元年(1624)の創祀。
松代初代藩主である、真田信之が上田から松代への移封にあたり
崇敬していた海野郷の白鳥神社を勧請したもの。

承応二年(1653)社殿を建立し、社領100石とした。
資料によっては、この承応二年を勧請の年としている。

伝説によると、
真田信之の駕籠の上に白い鳥が舞い降りて、
信之と共に松城へ移りたいと訴えたとあり、
鎮座地の名は舞鶴山という。

真田氏の本家は、滋野氏の後裔の海野氏。
真田信之は、真田伊豆守滋野信之とも自称していたらしい。

よって祭神は、白鳥大明神である日本武尊と、
滋野氏の祖、清和天皇の皇子である貞元親王と貞保親王。
さらに、七代藩主眞田幸專の頃、文化十年(1813)社殿を改築し
真田信之の霊を合祀して武靖大神とした。

明治六年五月村社に列し、明治三十一年十月県社に指定された。
昭和二十六年十月、
八代藩主眞田幸貫の没後百年祭にあたり、
歴代藩主の真田九氏の霊を合わせ祀った。

本社と思われる海野郷の郷社白鳥神社は
景行天皇四年八月十二日の創祀と伝え、
皇子・日本武尊が東夷征伐の帰途、海野郷に留まり
近くの小海を望まれて、上総での海難を思い出され
「この海も野となれ」と言ったという。
日本武尊の没後、白鳥となって飛び立ち
大和・河内を経て、海野郷に止まり、その地に祠を建てたという。

拝殿の屋根には真田氏の紋・六文銭が付けられていたが
当社の神紋かどうかは未確認。
ちなみに本社である海野郷の白鳥神社の神紋は洲浜紋らしい。

境内の神馬庫には
松代八代藩主真田幸貫が奉納した木造神馬が安置されており
長野市指定文化財になっている。


社頭

300m参道

境内

鳥居

惣門

社殿

階段下右手の神馬庫

木造神馬像

階段下左手の絵馬殿

ノロシ山登山口

白鳥神社
 この神社の祭神は 日本武尊と真田家の 祖と伝承される貞元 ・貞保親王とともに 真田信之公(松代藩主第一代) の霊をあわせてお祭り をした神社であります。
 昔は小県郡海野郷 にあったものを、真田 信之公が松代へ移った 寛保元年(一六二四年)に 今の位置に移しました。
 松代町には白鳥神社 の氏子の家が多く春と秋に 例大祭が行われている。

−社前案内板−



松代の民話
白鳥神社に伝わる ふしぎなはなし
真田信之が元和八年(一六二二)上田より 松城へ移封の折、駕籠の上に白い鳥が舞い 降りて、信之と共に松城へ移りたいと訴え た白鳥大明神のはなしをはじめ、信之が 松城へ移った直後、光る物体がこの舞鶴山 に舞い降りて白鳥神社の地にお告げになっ たはなし、そして拝殿右側の神厩(馬小屋) に安置されている神馬が、神社の荒れ果て 参拝客の少なくなったことに憤りを感じて、 夜になると近くの田畑を荒らして信心のこ ころを呼びさまそうとしたはなしなど、白 鳥神社にはたくさんのふしぎなはなしが語 り継がれております。

−社前案内板−



【 白鳥神社 (松代町)(印刷用ページ) 】

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