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伊河麻神社
いかまじんじゃ
静岡県静岡市駿河区稲川1−10−15  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴



式内社 駿河國有度郡 伊河麻神社
旧郷社

御祭神
品陀別命

静岡県静岡市にある。
静岡駅の南500mほどの稲川に鎮座。
通称、カネボウ通りと呼ばれる広い道路の交差点近く、
南向きに境内入口の鳥居が立っている。

静岡旅行2日目。
市街地中心部にある神社への参拝は、
徒歩なら問題無いが、車の場合、駐車する場所に苦労する。
ということで、休日の早朝、日が昇ってすぐの頃。
交通量も少なく、ゆっくりと駐車可能なスペースを探し、
道路の反対側からカメラを向けて撮影・参拝開始。

境内に入ると、正面にコンクリート造の社殿。
右手に、大きく枝を延ばした巨木が聳え、
巨木の根元にはベンチが車座に置かれている。
地元の方にとって、憩いの場となっている雰囲気。

ほのぼのした気分にひたりながら、
境内左手を見ると、二つの境内社があった。
が、一方の稲荷らしき祠は、真黒い炭状態。
どうやら、燃えてしまったようだ。
ネットで調べてみると、昨年(2004年)の三月頃から、
静岡駅南約5Km四方のエリアで、放火と見られる不審火が20件以上続き、
当社も、その被害を受けたらしい。

神社は、オープンな場で、誰にでも門戸を開いた空間なのだが、
心無い者の侵入も、容易に許してしまうのだよ。

炭になった祠の前で、しばし佇んでしまった。残念。

社伝によると、天武天皇白鳳四年(675)四月四日の創建。
よって、四宮とも称されたという。

同じく社伝によると、
現在の鎮座地は、奥宮であった場所。
当社の南約800mに里宮があったといい、
現在でも、鳥居株、石垣添などの字名が残っているらしい。

永禄十一年(1568)武田信玄の侵攻により、
奥宮・里宮は焼失し、幕末の弘化二年、奥宮のあった現在地に再建。

江戸時代には八幡宮と称していたが、
再建時の棟札には、「井鎌大明神」。
八幡宮だったのは、誉田別命を祀っていたからか。

二つの境内社は、
左の燃えた祠が稲荷、右が金刀比羅。
案内には、他に火産神社が記されていた。

社殿の屋根には、三つ巴紋。
祭神が誉田別命なので、八幡系の紋として納得。
ただ、拝殿内を覗いてみると、橘紋も使用されている様子。


境内入口

燃えてしまった境内社

社殿

神木の樟

伊河麻神社
静岡市稲川一丁目一〇の一五(元中田字宮地一番地)
祭神名品陀別命
社殿工作物(本殿)九.二五㎡(幣殿)二一㎡(拝殿)五六.七㎡(社務所)三九.六㎡(参集所)二四七.五㎡
境内社金刀比羅神社、稲荷神社、火産神社
境内地一、九五八㎡ 氏子戸数(氏子)二、一〇〇戸
由緒
延喜式神明帳に「駿河國有渡郡伊河麻神社是也」 と所載され、諸郡神階帳に「正四位伊河麻明神、白鳳 四年四月創建ス」とある。駿河志料には「伊河麻神社 今井鎌大明神といふ、当社は延喜式神明帳所載 にて、風土記に有渡清水(或は玉潔水)伊軸麻神社浄見 原天皇御宇四年四月被祭之、應勅処分、為四宮 奉祭誉田天皇所也」と見え、神階は諸郡神階帳に「正四位 下伊賀麻明神とありて古はいかめしき御社にと有りけむ。 此地を去りて遥かに鳥居株井垣添など云う字ここ かしこの残り古の大社の俤あり、今は村持の社なれど 古木茂れる森なり。今川家の近臣に四宮右近光 あり之此社の神官にして武役を勤めし人にゃありけん」 と記されている。明治八年二月郷社に列し、旧除地八畝拾三 歩を有し、明治四十二年六月十八日静岡県告示第二百 拾号を以て神饌幣帛料供進指定神社に列せられた。 昭和五十年十二月二十五日、郷社列格百年記念事業と して社殿を新築竣功した。昭和二十一年七月三十日 宗教法人令により届出をし、昭和二十七年八月 宗教法人法による法人設立の登記をした。 静岡県神社庁認証の等級は五等級である。

−境内案内板−



【 伊河麻神社 (静岡市)(印刷用ページ) 】

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