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葛城一言主神社
かつらぎひとことぬしじんじゃ
奈良県御所市大字森脇字角田432  Zenrin Data Com Maps display !!


半菊に一の字

朱印のページへ!!

式内社 大和國葛上郡 葛木坐一言主神社 名神大 月次相嘗新嘗
旧県社

御祭神
葛城一言主大神 幼武尊

御所市、葛城古道にある。
加門七海著「鬼哭」を読んで気になっていた神社。

鳥居から真っ直ぐの道、突き当りに階段があり、境内はその上。
期待していたような怪しさはない(何を期待してたんだ)。

祭神は、一言主大神幼武尊(わかたけのみこと)。
一般には、一言主=事代主とも言われている。

事代主は、一種の託宣の神だが、当社では、一言の願いを叶える神。
言霊に関する神である。

「吾は雖悪事、而一言、雖善事、而一言、言離之神」
(あはまがこともひとこと、よごともひとこと、ことさかのかみ)

古くは葛城山頂にあったのを山下に移したという。
『記紀』によれば、雄略天皇四年に天皇が葛城山に猟をしたとき、
対面して同じ様相をした者が天皇と全く同じ所作、言葉を発するものが出現し、
天皇は恐れてこれを拝したという。

また、役小角が諸神を集めて葛城山と金峯山の間に石橋を架けた。
早く出来上がらないので小角は怒って一言主を呪い、深い谷に縛り繋いだという。
これは中国の故事を元にした話だろう。
昔、秦始皇帝が海神に石橋を架けさせたところ、なかなか成就しないので海神を縛ったという。
後人が行者の霊異を誇って付会した説であると考えられる。

御朱印はないそうで、スタンプで我慢する。
本殿の写真がない。撮り忘れたようだ。
朱印が貰えなかった事がショックだったのだ。

境内社は二つの祓戸社と稲荷社。
さらに、市杵島社、天満社、住吉社、八幡社・神功皇后社の四祠が並んでいた。


鳥居

参道

境内

拝殿

境内社四祠

二之鳥居そばの祓戸社

稲荷社

社殿前の祓戸社

御神木の乳銀杏

一言主杜 葛城山の東麓にある。
 祭神 一座 一言主命 一名葛城神〔素盞嗚尊の子〕
(以上『国花記』『神社啓蒙』による)
『古事記』にいう。雄略天皇が幸して葛城山に登った時、(百官)悉くが紅の紐を著けた青摺の衣服を給わった。 その時、向こうに山を登る人があり、天皇のみゆきと等しく、装束の状も人々もよく似ていた。そこで天皇は山を望んで問わしめ、この倭の国に我を除いてまた王はない。そににいるのは誰か、と言った。すると答える状も天皇の言うとおりであった。天皇はいたく忿り矢を番え、百官の人も悉く矢を番えた。ところがその人々もまた矢を番えたので、天皇はまた問いかけて、それでは名を名告れ、各々名を名告って矢を放とう、と言った。これに答えて言うには、我がまず問われたので名告ろう、我は悪い事も一言、善い事も一言、判断(ことわり)する神、葛城の一言主の大神というものである、と。天皇はそこで惶れ畏って、我が大神が現し御身があるとは知りませんでした、と申して、御刀・弓矢を始め、百官の人々の着る衣服を脱いで拝し献った。そこで一言主大神はその捧げ物を手ずから受け取られた。天皇が還幸する時、大神は送り奉った。この一言主大神はその時顕現したのである。
(以上『神社啓蒙』による)
貞観元年(八五九)正月二十七日従二位に叙せられた。
 〔『神社啓蒙』に、諺に、昔役小角が諸神を集めて葛城山と金峯山の間に石橋を架けた。早く出来上がらないので小角は怒って一言主を呪い、深い谷に縛り繋いだという、とある。しかし、小角は葛城の里民であり、一言主は天神の裔胤である。どうしてそのようなことがあろうか〕。
 〔拾遺〕岩橋の夜のちぎりも絶えぬべし明くる侘しきかつらぎの神(春日宮女蔵人左近)
 △思うに、秦始皇帝は海神に石橋を架けさせた。なかなか成就しないので海神を縛った〔船・橋の部の巻(三十四)に詳しい〕。後人が行者の霊異を誇り、付会した妄説である。小角はただ仏道のみならず、神道をも崇めた。ことに当郡に生まれ一言主は郡中の霊神である。もって考え合わすべきである。しかるに〔『元亨釈書』及び『歌林良材集』では〕俗説を用いて遂に通説となった。小角及び泰澄が鬼神を駆使したというのは、恐らくは五鬼・前鬼の類で、渓澗を越え瞼岨を走る山人で、さながら鬼神のようなものか。小角の左遷は韓国連の讒言による〔『続日本紀』に見える〕。孔雀明王の呪を修するといっても、どうして無形の神を縛れよう。誠に縛ることがあっても、一言主大神がそれを奏したのに、何故讒言をもって左遷したのか。これが疑いを解く一である。

−『和漢三才図会』−

 葛城一言主神社 奈良県御所市森脇。旧県社。祭神一言主大神。古くは葛城山頂にあったのを山下に移したという。『記紀』によれば、雄略天皇四年に、天皇が葛城山に猟をしたとき、対面して同じ様相をした者が天皇と全く同じ所作、言葉を発するものが出現し、天皇は恐れてこれを拝したという。一種の言霊であろう。貞観元年(八五九)従二位を賜う。同年九月幣を奉りて雨風を祈られる(『三代実録』)。『延喜式』に、名神大社・祈年・月次・相嘗・新嘗の案上官幣、祈雨の祭に預かる。正暦五年(九九四)中臣氏人を遣わして幣帛を奉り、疫疾放火に祈らしむること『本朝世記』にみえる。例祭九月一五日。春祭(四月五目)、秋祭(一〇月一五日)。同じ御所市に葛城御歳神社があり、延喜の名神大社でおんだ祭がある。貞観元年従一位に昇叙。また同市金剛山頂に国の史跡地金剛山葛城神社あり、修験道の道場であった。金剛生駒国定公園の中心、五月二五日大楠公祭がある。

−『神社辞典』−



【 葛城一言主神社(印刷用ページ) 】

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