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一國一社八幡宮
いっこくいっしゃはちまんぐう
富山県富山市八幡718
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旧郷社 |
富山県富山市にある。
富山駅の北5Kmほどの八幡に鎮座。
富山駅から西へ進み、神通川を渡って北上すると、
1号線の八幡交差点の北西に境内がある。
境内は南東向き。
入口には大きな鳥居が建っている。
鳥居の脇にある社号標には「郷社 八幡宮」と刻まれており
鳥居扁額には「越の國一國一社 護國八幡宮」とある。
資料によると八幡宮が正式な社号のようだが、
八幡の宮、一国一社八幡宮、護国八幡宮などと通称されている。
鳥居をくぐると、参道正面に社殿。
参道の右手に手水舎。境内左手には社務所がある。
拝殿は大きな瓦葺神明造。扁額には「八幡宮」。
名前がわからないが、拝殿前に参拝用の大きな屋根が設置されており
拝殿全体は黒や褐色だけど、その屋根の柱だけが赤く、
ちょっとレトロモダンな感じだったのが印象的。
拝殿の後方には、銅板葺流造の本殿があるが
本殿の前面にガラスの扉が付けられていた。
参拝当日が晴天だったせいか、とにかく明るく綺麗な神社だった。
垂仁天皇八十四年、皇子・大若子(後の大幡主命)が
越の凶賊阿彦平定を終え、当社・八幡の宮を造営し帰落。
当地の住民が大幡主命を慕って、当社に祀ったという。
文武天皇が「忠孝」の二字を自書して忠孝の意義を教えられた時、
甲良人麿がこれを奉じて越路に下って教諭。
越の民は、高梨野の丑寅内山に高々と石壇を築いて迎え、
二字の札が磨滅するのを恐れて当社に祠を作って安置した。
聖武天皇が各国に、一国一社八幡宮を創立した時、
当社に誉田別命・息長帯比賣命・玉依日女命を合わせ祀って八幡宮を建造。
弘仁二年八月十五日、越中護国八幡宮の神霊を奉載し、
護国八幡宮とも呼ばれるようになった。
後奈良天皇天文年中、戦禍により社殿焼失したが、
天文十二年、有沢才蔵により社殿が修復された。
明治六年郷社に列し、
明治三十四年、いくつかの神明宮を合祀し、
大正二年、境内社・神明宮も合祀した。
本殿前のガラス扉には八幡に多い「対い鳩」の紋が付けられていた。
また、拝殿の屋根には三つ巴紋と橘紋。
『富山県神社誌』に載っている写真でも、
この二種類の紋を染めた提灯が掲げられている。
社頭 |
鳥居 | 越の國一國一社 護國八幡宮 |
境内 |
拝殿 | 拝殿扁額 |
本殿 | 本殿 |
社殿 |