[HOME] > [神社記憶] > [北陸地方] > |
|
石武雄神社
いわたけおじんじゃ
富山県南砺市野尻711
|
|||
富山県南砺市にある。
小矢部川の東、471号線と143号線の交わる野尻西交差点の東そばに鎮座。
参道入口は143号線に面して南向き。
「石武雄神社」と刻まれた社号標が立っている。
参道を進むと鳥居があり、鳥居の奥に社域の杜。
参道を歩いていると、右手(東側)に何かの塚のようなものがあり、
近づいてみると「集封蝗虫塚」とあった。
イナゴ被害対策で多くのイナゴを封じた供養のための塚だろうか。
参道を進むと参道左右に灯籠があり、境内に入ると一つの鳥居。
その奥が社殿のある境内。
拝殿は瓦葺入母屋造で、後方の本殿銅板葺流造のようだ。
ともにガラスの囲いで覆われている。
拝殿の前、左右に矢大臣(随神像、銅像だろうか)。
「石武雄」の社号から武神を連想していたが
「なるほど」と思いながら参拝した。
創祀年代は不詳。
『富山県神社誌』によると、古くから石武雄神と称え、
『三代実録』に陽成天皇元慶三年(879)十月二十九日、
「正六位上石武雄神従五位下」とある式外の古社。
当社縁起によると、崇徳天皇の天承年間、
信州水内郡野尻の郷士河合典膳の子・河合五郎、六郎の兄弟が
生国の守護神である熊野三神の霊夢によって越中国礪波郡石武野に移り、
大いに開拓してついに地方二十九ケ村を領治した。
河合氏が、その熊野三神を当社に合わせ祀り「岩武三社権現」と称されたという。
以来石武野は河合氏の故郷の名に因んで野尻郷と称せられ、
当社は野尻郷(後に新開五十余ケ村)の総産土神として崇敬された。
明治になって、熊野三神の配祀を除き、旧称の石武雄神社に復し、
大正十四年、境内神明社を合祀して、昭和三年郷社に列した。
阿弥陀如来像、観音・勢至菩薩像が刻まれた社宝の懸佛は市指定文化財。
昔は、御神体だったが明治の神仏分離により社宝となり、
三十三年毎に公開されているらしい。
当社の神紋に関して。
本殿屋根や拝殿前の天水桶には三つ巴紋。
『全国神社名鑑』にも神紋は「左三つ巴」と記されているが、
拝殿の屋根や、扁額の上には菊紋も見られたので、とりあえず菊紋も載せておく。
社頭 |
鳥居 | 集封蝗虫塚 |
社域 |
参道灯籠 | 参道 |
境内鳥居 | 境内 |
社殿 |
扁額 | 拝殿 |
本殿 |
矢大臣 | 矢大臣 |
野尻郷総社 石武雄神社の栞
御祭神 石武雄神 天照皇大神御由緒 当神社は創立年代極めて古く祭神を石武雄神(いわたけおのかみ)と称し、また昔此の地方一帯を石武野(いわたけの)と称しました。 この神号と地名の一致していることは当社の淵源の遠く且つ此の地に縁故深き社であることを示しています。国史所載の所謂国史現在社で、陽成天皇の御宇元慶三年(八七九)十月に正六位上石武雄神に従五位下の神階を授けられたことが、「三代実録」に見えています。 天照皇大神は旧境内神社の神明社祭神で、大正十四年(一九二五)七月合祀したものであります。 旧縁起に依りますと崇徳天皇の天承年中(一一三一〜一一三二)信州水内郡野尻の郷士河合典膳の子、河合五郎・同六郎の兄弟が生国の守護神である熊野三神の霊夢に依って越中国礪波郡石武野に移ってきて、大いに開拓し遂に地方二十九ケ村を領治しました。河合氏はその熊野三神を当神社に合わせ祭り、社殿を造営し崇敬極めて篤く兄弟共に当社の宮守となりました。以来石武野は河合氏の故郷の名に因んで野尻郷と称せられ、当社は野尻郷(後に新開五十余ケ村)の総産土神として崇敬信仰されました。 古く石武雄神社と称し、神仏習合時代には社号を俗に岩武権現或は岩武三社権現などと称しましたが、明治初年(一八六八)久しく行われた神仏習合の儀は全く除かれ古制に復し、旧称の石武雄神社に復しました。 河合氏の子孫は真言宗修験道当山派に属し、真言山伏となって後に「瑞東山法厳寺」と称して世襲しました。爾来本寺は石武雄神社の別当寺として社務を司り明治維新に及びましたが、維新後復職して神職となり、引続き奉仕して今日に及んでいます。 古来神仏習合時代の例に随い三十三年毎に岩武三社権現の式年開扉大祭を執行して来ました。起りは不詳ですが、最近では文政三年(一八二〇)五月、嘉永六年(一八五三)五月、明治二十七年(一八九四)七月、昭和四年(一九二九)七月、昭和三十六年(一九六一)七月、平成五年七月に執行されています。 尚、後亀山天皇の御宇元中六年(康応元一三八九)本願寺第五世綽如上人(しゃくにょしょうにん)が北陸化導の途次倶利伽藍峠(くりからとうげ)で老翁に会い、その老翁の物語に依って当神社に詣で一週間の滞錫をされ、阿弥陀如来の像及び詠歌を納められ、次いで二日町の芝普願寺を経て杉谷に赴かれ遂に井波町瑞泉寺の基を開かれたといわれます。当社二の鳥居旁に「綽如上人御旧跡」と記した石碑があり、嘉永六年(一八五三)の建設に依ります。 戦国時代争乱の頃、一向一揆、上杉氏の乱入等のため社頭衰頽しましたが、徳川氏泰平の世になり漸次神威興隆され、明治四十年(一九〇七)神饌幣帛料供進の神社に指定され、昭和三年(一九二八)十月郷社に昇格しました。 社殿境域 現在の本殿は流造銅葺、昭和十二年(一九三七)竣功。幣殿、拝殿は明治十五年(一八八二)造営、更に昭和四年(一九二九)神饌殿、神楽殿を増築しました。二の石鳥居は文政十一年造営、一の石鳥居、社標、狛犬は昭和四年築成。社務所は昭和初年から設置され、平成四年新館が竣功しました。境内は八四八坪余り、古杉鬱蒼として繁り樹下苔むして森厳の気に満ち古社であることを偲ばしめます。 祭典 歳旦祭(一月一日) 元始祭(一月三日) 鎮火祭(二月十一日) 紀元祭(二月十一日) 祈年祭(三月二十六日) 夏越大祓(六月三十日) 除蝗祭(七月二十四日) 例祭(十月十日) 明治節祭(十一月三日) 新嘗祭(十一月三十日) 天長祭(十二月二十三日) 年越大祓(十二月三十一日) 氏子崇敬者 氏子は福野町野尻及び岩武新百九十余戸ですが、崇敬者は旧野尻郷等五十余村(今の大字)にわたっています。 富山県東礪波郡福野町野尻七一一番地鎮座 石武雄神社社務所 −『平成祭データ』− 南砺市指定文化財(彫刻) 昭和三十九年六月二十九日指定 石武雄神社の懸佛
石武雄神社は、元慶三年(八七九)に従五
位下に叙されたことが国の正史『日本三代
実録』に記載されている国史現在社である。
当地方では高瀬神社を筆頭とする延喜式内
社に並ぶ由緒ある神社である。懸佛とは神鏡と仏像が合わさったもので、 神仏習合時代の遺物である。直径約三〇cm の青銅鏡の背面中央に阿弥陀如来像を、そ の左右に観音・勢至菩薩像を鋳出した三尊 像形式である。鏡の上部には「獅噛み」と呼 ばれる獅子が噛みついたような形のつり下 げ部が一対ある。 神社縁起によれば、この懸佛は石武雄神 社の宮司河合氏の祖が信州から奉還したも のと伝え、元は当社の御神体であった。明 治の神仏分離以後は社宝とされ、三十三年 毎のご開扉に公開されている。 南北朝頃(一四世紀代)の制作とみられ、 県内で最も古い懸仏の一つである。 −境内案内板− |