[HOME] > [神社記憶] > [中国地方] > |
|
國廳裏神社
こくちょうりじんじゃ
鳥取県倉吉市国分寺426
|
||
式外社 國廳裏神 三代実録 |
倉吉市街地中心から西へ約3Km。
伯耆国庁跡のそばにある。林に続く狭い農道の脇に鳥居がある。
国庁跡は雑草に覆われた広い野原で、入る気にはならなかった。
国庁の裏にあるから、国庁裏神社かな。
農道は狭いが、境内は広く、隋神門や拝殿も立派だ。
石造の鳥居や、由緒石碑も新しい。
創祀年代は不詳だが、
貞観十五年、従五位下を叙された古社で、式外社。
平安末期に国内の諸神を集め祀ったと思われ、
明治までは、総社と称していたらしい。
明治初年に、現社号に改め、郷社になり、
県社になったのは昭和20年。
大正になって以下の神社を合祀し、現在の祭神となった。
村社国府神社(木花之開耶姫命、保食神、大山祇命)
村社垂井神社(玉依姫命、天児屋根命)
村社清水神社(櫛稲田姫神、素盞嗚神)
村社和田神社(品陀和気命)、無格社横田神社(大国主命)
無格社福光神社(櫛稲田姫神、素盞嗚神)
村社東谷神社(品陀和気命)
垂井神社の祭神だった玉依姫命が、いずれの玉依姫命かは未確認。
天児屋根命と祀られていたので天児屋根命の后神かもしれないが。
拝殿後ろに大社造の立派な本殿がある。
本殿左に、境内社が一祠、皇大神宮と荒神宮の合祀社。
伯耆國庁跡 |
鳥居 | もう一つ鳥居 |
神門 | 社殿 |
境内 |
荒神宮・皇大神宮 | 本殿 | 本殿 |
由緒記 我が国古代大和時代伯耆国の国造に大八木足尼が地方官として中央より 任命されました。国造は適地として国庁を八代(社)郷に設置したのであります。 伯耆とは、久米、河村、八橋、会見、日野をいい、この管内の祭事と政治を棠っておりました。 国造は大国主命を深く崇敬し、又命に協力した少毘古那命との二柱の神 様を国庁の内に神社を建てて祭り国庁裏神社と称しました。 奈良時代元明天皇の和銅二年十一月に伯耆の国司、金上元為は事務が多 くなり国中の各神社に巡拝することが出来なくなり国中の各神社を一社に集めて 代表神社として祭典を行うこととしました。 この代表神社を総社といいました。世移り時変わり、昭和二十年二月に県社に昇 格し現在に至っています。 第一九代 宮司 松原高廣
−境内由緒− 国庁裏神社 (総社)倉吉市国分寺四二六 倉吉線西倉吉駅二粁二 祭神 大己貴命・少彦名命・他八柱 例祭 四月二一日 神紋 二重亀甲に剣花菱 本殿 大社造 四坪 境内 一一九八坪 氏子 五三〇戸 由緒沿革 むかしこの地は国庁の所在地であり、 神社巡拝の便のため、庁の北に一社を創建し 部内の神社祭神を総合祭祀したといわれる。 貞観一五年従五位下を授けられた。明治初期 郷社に、昭和二〇年二月県社に各列した。 −『全国神社名鑑』− |
【 国庁裏神社 國廳裏神社(印刷用ページ) 】