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八王子神社
はちおうじじんじゃ
岐阜県恵那市明智町1400−1
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岐阜県恵那市(旧明智町)にある。
明知鉄道・明智駅の東200mほどの場所、戦国時代の山城、明知城の北西麓に鎮座。
駅から東へ直進すると境内入口がある。
境内に入ると正面に鳥居。鳥居の脇に「金幣社 八王子神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると参道階段が上に延びており、左手には明智西宮恵美寿神社。
階段を上ると唐門があり、唐門の奥が広い公園のような境内。
参拝は晩秋の十一月。
唐門の脇に御神木の榎があり、周囲の木は真っ赤に色づいていた。
唐門を抜けた境内の東奥に当社の社殿。
入母屋造の堂々とした拝殿に、流造の本殿。
現在の社殿は、延宝四年(1678)、領主遠山半九郎伊次による造営で、
県の重要文化財に指定されている。
社殿の左手前に、当地出身とも伝えられる明智光秀による手植の楓と、
光秀建立と伝えられる柿本人麻呂社。こちらも県の重要文化財らしい。
社伝によると天暦三年(949)の勧請。
当時の社領二千石、 明知、串原、高波、浅谷などの諸村を領していたという。
天正二年(1574)三月、武田勢のために明知城と共に焼かれ、その後衰微。
慶長八年卯年(1603)十三代遠山利景により明知城が再興され、
当社も寛永十四年(1637)旗本遠山勘左衛門(あるいは地頭遠山藤四郎)により再建された。
延宝四年の記録によると、二十カ村二十六の神社が当社の末社であったという。
明治六年郷社に列格した。
境内左手に、元御神木の老杉の根に木之大神が祀られている。
その他の境内社は、熊野三所大権現、春日大明神、八幡大神、神明社。
武甕神社、天神神社、若宮八幡神社、稲荷神社、諏訪神社、軍神神社など。
社殿や唐門に丸に二引きの紋が付けられていた。
当社を庇護した遠山氏の家紋を使用しているのだろうか。
社頭 |
鳥居 | 明智西宮恵美寿神社 |
参道階段 | 唐門 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
社殿 |
熊野三所大権現、春日大明神 八幡大神、神明社 | 武甕神社、天神神社、若宮八幡神社 稲荷神社、諏訪神社、軍神神社 |
光秀手植乃楓と柿本人麻呂社 |
元御神木の老杉に木之大神 | 石祠 |
御神木の榎と紅葉 |
金幣社 八王子神社社殿
この社は、天照大神の八人の王子(王女三人・王
子五人)を祀り、平安時代の天暦三年(949)に創
建された千年を超える歴史をもつ郷土の産土神。古事記によれば、天照大神の胞衣(えな)を納めた山、胞 衣山が、恵那の地名の始まりとされている。わが国 神道の大本ともいえるこの地方にふさわしい社格 をもっている。 遠山氏十二代景行の頃、甲州から出て天下制覇を 夢見る武田勢の兵火にかかり、城と共に焼失した。 その後、領主遠山氏の産土神として、度々造営が繰 り返されて来たが、現在の社殿は、延宝四年(一六七八) 時の領主遠山半九郎伊次による造営である。 県・重要文化財指定 ●八王子神社社殿 ●絵馬七点 ●柿本人麻呂神社 ●唐門(城の大手門) −境内由緒書− 八王子神社 参拝のしおり 社伝によると八王子神社は、天暦三年(949年)勧請され社領二千石、 明知、串原、高波、浅谷などの請村を武家の世が到来するまでは領していたといわれる。 天正二年(1574年)三月武田勢のために、城と共に焼かれ、 慶長八年卯年(1603年)十三代利景明知城再興、旧領安堵の御朱印拝受により、 新たに社殿を再建した。その後延宝四年(1676年)旗本四代遠山半九郎伊次公によって、 現在の社殿が造営されたのである。当時としては実に豪華なもので、星霜三百年に垂んとする今日、 昔の姿のままであることは、誠に驚異に価するものである。八王子神社御祭神、天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、能野久須毘命、多紀理毘売命、市寸嶋比売命、多岐都比売命。 −『平成祭データ』− |