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築土神社
つくどじんじゃ
東京都千代田区九段北1−14−21
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旧村社 |
東京都千代田区にある。
九段下駅の北、北の丸スクエアの奥に、ビルに囲まれた境内がある。
境内入口は北側。坂道の途中、ビルの前に鳥居が立っている。
鳥居をくぐり、参道を歩くと立派な社殿。
妻入拝殿の後方には、コンクリートの神明造平入りの本殿がある。
北の丸スクエアから見上げる本殿は、
ビルの谷間に聳えて、異世界の趣がある。
社殿の右脇に、世継稲荷神社があり、社殿との間に力石。
世継稲荷神社の脇に「山本社司之碑」が建っている。
昭和の大戦で全焼する世継稲荷神社から、
身を犠牲にして御神体を守った山本岸太郎を称えている。
世継稲荷神社の奥が社務所になっているが、
ビルの一階の管理室のような雰囲気だ。
津久戸大明神、江戸明神、田安明神とも称された神社。
社伝によると、創祀年代は天慶三年(940)。
藤原秀郷(俵藤太)に討たれて憤死した平将門の首が、
密かに京都より持ち去られ、武蔵国豊島郡上平河村津久戸
(現大手町周辺)の観音堂に祀られて津久戸明神と称したのが始まり。
当初は血首明神と称されていたという説もあるらしい。
一般には、京都で晒されていた将門の首が
京都から飛んできて将門首塚(大手町)の地に落ちたと伝えられているが
密かに、江戸に持ち去られたとする当社の伝承の方が真実味がある。
太田道灌の江戸城築城後の文明十年(1478)、
江戸城の乾(北西)に社殿を造営し、
太田家の守護神・江戸城の鎮守神として厚く崇敬した。
天文二十一年(1552)、
上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に遷座。
田安明神と称されて、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに
江戸三社の一つに数えられていたという。
その後、徳川家康江戸入城の際に江戸城拡張により
天正十七年(1589)下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在の飯田橋駅付近)へ、
さらに元和二年(1616)には江戸城外堀拡張のため
新宿区筑土八幡町(現筑土八幡神社西隣)へ遷座し、
築土明神、筑土明神と称した。
『江戸名所図会』より
徳川幕府より崇敬された神社であったが、
明治になって、朝廷に反逆した平将門にかえ、天津彦火瓊瓊杵尊を主祭神とした。
昭和二十年(1945)戦火によって社殿が全焼。翌年千代田区富士見へ遷座され、
昭和二十九年(1954)現在地にあった世継稲荷神社境内に遷座した。
写真を撮り忘れたが、当社には繋ぎ馬を刻んだ天水桶があるらしく、
繋ぎ馬に九曜紋を描いた絵馬が授与所で売られている。
平将門と馬とは関連が深く、さらに平将門は相馬氏の祖にあたるとか。
神田明神の社家であった柴崎氏や鳥越神社の鏑木氏も相馬氏の流れであるらしい。
また、繋ぎ馬や九曜紋は、相馬氏の家紋であるらしい。
繋ぎ馬は将門の馬から、九曜紋は将門を守護した妙見信仰からと思われる。
鳥居 | 参道 |
社殿 |
力石 | 世継稲荷神社 |
山本社司之碑 | 繋ぎ馬絵馬 |
本殿後方から |
筑土神社 御由緒 天慶三年(九四〇年)二月十四日藤原秀卿に討たれた平将門公の首級は京へ運ばれ晒し首になっていた。 しかし陳没に間に合わなかった軍兵や知遇あった人々が残念がり諸方が騒がしく近国の役人にも同じ思いの者あって早速に京から首級を下げて貰って武蔵国豊島郡(とよしまごおり)上平川(現在の江戸城本丸近辺)の観音堂にその霊を斎い祀り津久戸明神と称したのがはじまりで、降って文明十年(一四七八年)太田道潅江戸城を修築せらるるや殊に当神社を尊崇し、同年六月を以って社殿を造営し、江戸城の鎮守又は太田家の守護神として祭祀を篤くせられた。 越えて徳川家康の江戸城に移るに及び城郭改修に伴い天和七年(一五七九年)二の丸普請の工を起し、当社はその郭内に入る為田安卿に替地を賜り遷座する。 この地は現在の九段北一丁目モチノ木坂附近より牛込門内に至る極めて広い境内を有していた。 当時はその地名を称して田安明神又は江戸明神とも称し世人崇敬の的となっていた。 然るに元和二年(一六一六年)後水尾(ごみずのお)天皇が外濠普請を起工するに当り更に新宿区筑土八幡町に遷座するの止むなきに至った。 その時津久戸明神を改めて筑土明神と改称した。 平将門は一般歴史に伝える如き大悪逆人でなかったとしても国家が特にその功勲を認め其の人格を尊崇し永久に祭祀すべき程のものとは云えまい。 東国での地方的国事を憂えた努力はあったが業績見ゆるまでには行かなかったものと思われる。 そこで明治七年(一八七四年)氏子の請願で国家祭祀の性質のある御祭神、天孫天津彦火瓊々杵尊を勧請し其の相殿として平将門之霊を祀る事となった。 それと共に筑土明神を筑土神社と改称した。 新宿区筑土八幡町に鎮座すること実に三百二十八年の長きに及ぶも、昭和二十年(一九四五年)四月十四日午前二時大東亜戦争の災に遭い社殿その他悉く焼失す。戦後の昭和二十一年九月千代田区富士見一丁目(現在の九段中学校地)に仮遷座、更に昭和二十九年(一九五四年)現在の地九段北一丁目中坂に遷座、今日に至っている。 −『平成祭データ』− |
加門七海の著書『将門は神になれたか』(文庫版は『平将門魔方陣』)には、
当社などの江戸における平将門ゆかりの神社が、
一種の魔方陣として配置されているのでは、と記されており興味深い。
雑記帳『平将門魔方陣 「将門は神になれたか」』参照。