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度津神社
わたつじんじゃ
新潟県佐渡市羽茂飯岡550−4  Zenrin Data Com Maps display !!


十六八重菊

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式内社 佐渡國羽茂郡 度津神社
佐渡國一宮
旧國幣小社

御祭神
五十猛命 配祀 大屋都姫命 抓津姫命

佐渡島の南西、旧羽茂町にある。
市役所支所の北東3Kmほどの羽茂飯岡に鎮座。
81号線沿いにあり、羽茂川側に大鳥居が建っている。

境内入口は南西向きで、後方の山は神体山・妹背山。
入口の赤い鳥居には「一宮」と書かれた扁額。

鳥居をくぐり、参道を進むと小川があり
赤い欄干の橋を渡って階段を上ると神門。
神門の奥に入母屋造の拝殿がある。
季節のせいか、境内の木々の葉が茂って本殿は良く見えない。
拝殿横から遊歩道があり本殿に近づけるが、
本殿が大きくてうまく写せず。離れると木々が邪魔で、撮影は難しい。

が、まさしく木の神を祀る神社という雰囲気はある。

「度津」と書いて「ワタツ」と読む。

祭神・五十猛命素盞嗚尊の御子神で、植樹の神。
造船の神でもあるようで、当社では航海の神。

あるいは、本来の祭神は五十猛命ではなく、
純粋に航海の神(海童神)だったという説もあるらしい。

当社は羽茂川の洪水で流出し遷座したらしい。
元地に関しては幾つかの説があるようだ。

1.文禄二年六月、洪水のため流出し、同じ村の八幡宮に合祀。
その後、元地に再興されたとする説。
ゆえに、当社は「一宮八幡」とも称されている。

2.文明二年六月、洪水のため流出。
元地は現在地の東。別当屋敷字垣の内、字九日田附近。

3.羽茂川上流、下川茂字猿八の九社神と呼ばれる小山の上。

境内社として八幡宮が鎮座。
妹背山中腹には、境外末社・事比羅神社があるらしい。


境内入口の二之鳥居

神門

神門

境内

拝殿

八幡宮

本殿上から

本殿真横から

本殿下から

度津神社(一の宮)旧国幣小社
佐渡郡羽茂村飯岡 佐渡汽船にて小木港より六粁
祭神 五十猛命 例祭 四月二三日
本殿 切妻流造 二〇坪 境内 三一六一坪
末社 二社 氏子 七六戸 崇敬者 一万人
神事と芸能 末社八幡宮例祭(四月二三日)流鏑馬式あり、妹背神楽あり、大神楽又はツブロ指しともいう。
由緒沿革 祭神は素盞鳴尊御子神で天降りま す時に天津樹種を持降り、専ら植林の途を奨 め給うた。又の御名を大屋彦神と申し、宮殿 家屋の建築を初め造船及び日用器具の製作等 に御功績あり、又父尊の浮船の御神功を賛し 奉り、航海漁撈を知らしめ給う。故に社号を 度津神社と称えるという。当社は佐渡国式内 九社の第一で、当国一の宮として武将庶民の 信仰厚く、海北鎮護の大社であったが、文明 二年六月洪水のため社地流出し、縁起古文書 を初め別当坊に至るまで悉く流出した。明治 四年国幣小社に列した。(神社本庁別表神仕)

−『神社名鑑』−

度津神社御由緒
「延喜式」神名帳(九二七年)に記載されている神社を式内社と言い当時佐渡の国 には九社あり、その第一の宮として古来より一ノ宮と称し格式の高い神社であり ましたが文明二年(一四〇七年)羽茂川の大洪水により社地・古文書等ことごとく 流出した為その由緒、縁起など詳らかでありません。その後現在の地に御遷座申し 上げたもので明治四年国幣小社に列せられました。現在の御本殿は宝永六年 (一七〇九年)に、幣殿・拝殿は昭和十二年の御造営によるもので、全部台 湾産の檜が用いられております。
御祭神 五十猛命
素盞鳴尊の御子にして父神に似て勇猛なことから名付けられました。 初め天降ります時、樹木の種子を持ち降り父神と共に朝鮮に渡りのち 日本に帰り全土にわたり植林を奨められたので皆青山うつ蒼として繁茂 し為に「植林の神」として崇められました。そして宮殿・家屋・船・車から日用 器具の材料に至るまでこの神の御功績に依るところから「有功の神」とも申します。 又、人々に造船・航海の術を授けられ各地に港を開かれた事から御社号を度津 と称しております。尚植林と共に道を拓き車の普及に当られた御神徳により今は 海上、陸上の交通安全の守護神として全島民から信仰されております。
   主な祭日
 例   祭    四 月二十三日
 歳 旦 祭    一 月一  日
全島交通安全祈願祭 四 月二十一日
全島海上安全祈願祭 四 月二十四日
  大漁満足
 新 嘗 祭    十一月二十三日

−境内案内より−



【 度津神社(印刷用ページ) 】

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