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山家神社
やまがじんじゃ
長野県上田市真田町長字山家4473ロ−2  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴


真田銭


五三の桐


永楽銭

式内社 信濃國小縣郡 山家神社
旧県社

御祭神
大己貴命 菊理姫命 伊邪那美命 日本武尊

長野県上田市(旧真田町)にある。
上田菅平I.C.から144号線を北東へ7Kmほど。
真田町で、脇道(沼田街道・上州街道)へ入ると道沿いに鳥居がある。
当社から北東へ10数キロの位置に四阿山(2354m)がある。
山頂に当社・山家神社奥宮が鎮座しており、当社は里宮にあたり、
山家神社本宮と呼ばれている。

創祀年代は不詳。

式内社・山家神社に比定される古社で
山家郷の産土神として崇敬されている神社。

社伝によると、往昔、日本武尊一柱を祀っていたが、
本社の別当であった浄定は、越の泰澄の徒弟で、
加賀の白山比咩神社を信仰し、その神霊を勧請して、
養老二年、奥社を四阿山山頂に奉遷したという。
その後、里社は建久年中源頼朝が現在の地に奉遷したという。

一説には、始め岩井山に鎮座し、
後に、旧字古坊に遷座していたが、文徳天皇天安元年(857)
暴風雨洪水によって社殿が崩壊し、神森を押し流して現在地に遷ったとも。

神仏混淆によって、かって境内には白山寺があり、
白山大権現と称され、一般には白山様と呼ばれていた。

 Zenrin Data Com Maps display !!四阿山山頂の奥宮は二社あり、
南向きの社を信州向社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)と呼ぶ。
明治までの神事に、神送り・神迎えの神事があった。
6月15日、本宮より親神様を涼しい奥宮へ送り、子神様を本宮へ迎える。
11月17日には、逆に、親神様を本宮へ迎え、子神様を奥宮へ送る。
ただし、親神・子神が逆であるという伝承もあり、
さらに、6月に菊理姫命を奥宮へ、伊邪那美命を本宮へ、
11月には、その反対を行うという伝承もある。

伊邪那美命・菊理姫命の関係を、親神・子神と見ていたかどうかは不明だが、
そう、仮定すると、当地を「黄泉国」と見ることもできそうだ。

境内には、真田神社が祀られている。
大正八年、境内に遷されたもの。
真田町は真田氏一族の土地で、代々、山家神社を崇敬していた。

本宮社殿には、「巴紋」と「真田銭」の紋様をつけた幕が掛かっていた。
真田銭は、通称、六文銭と呼ばれるもの。あるいは、六道銭とも。

社殿の屋根には、さらに「桐紋」と「永楽紋」も付いていたが、
出処は不明。社殿奉納者の紋である可能性もあるが。とりあえず載せた。

鳥居は、渋い茶色で、落ち着いた雰囲気が漂っている。
社殿の造りが変っている。
社殿の後方から、左に境内社が幾つか並んでいるが個々の社名は未確認。
浄定社・日枝社・大歳御祖社・建雄社・愛宕社・子安社・阿夫利社
金比羅社・諏訪社・駒形社・稲荷社・北野社・雨降社・七家明神社

雨降社とあるが、当社奥宮では「雨乞い神事」が行われる。


社頭

境内入口の社号標

鳥居

参道鳥居

参道階段と御神泉の祠

境内

拝殿

山家神社鬼瓦

本殿

社殿後方から

境内社

境内社

境内社

本殿後方に大山咋神、日枝社?

白山寺跡に真田神社
真田幸隆・真田昌幸・真田信幸・真田幸村・
戦没者英霊百四十九柱

真田神社鬼瓦

真田神社

 創立年は不詳であるが、大己貴命を祀つて舊山 家郷の産土神としたものである。社傅に本社の別當浄定と いふもの越の泰澄の徒弟にして加賀の白山比咩神杜を信 仰し、其の神霊を勧請し、養老二年奥社を四阿山絶頂に奉 遷す、とある。この奥社は二社あり、南向きの社を信州向 社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)といふ。本社 はもと舊字古坊に鎮算してゐたが、文徳天皇天安元年(八 五七)六月十六日、暴風雨洪氷にして社殿を崩壊し、神森 を押し流して現在の地に遷つたと傳へられてゐる(此の時 神主清原真人某は姓を押森と改稱すと傳ふ)
 『神祇志』に「山家神社、今在四阿山上、即古山家郷 之地、郷名今存于眞田村、其他又有一祠、曰山家社、 盖後世所分祠也。」とあり、『神祇志料』には「山家神 社、今眞田村山家にあり、白山神と云ふと見ゆ。」とある。
 古来、國司、守護職、武門武将より一般民衆に至るまで 崇敬極めて厚く、特に眞田氏代々の崇敬深く、奥宮並ぴに 本宮の営繕及び寄進をうけてゐる。文和八年(一三五九) 一月仙石氏上田入部以夾、忠政、政俊、政明三代八十五年 間、営繕を始め祭典費等の寄進をうけ、更に寶永三年(一 七○六)松平氏上田入部以後明治四年廃藩置縣に至るまで の間、崇敬深く、祭典費はもとより営繕費その他に至るま で一切藩費をもつてせられた。當時は、上田城の鬼門除の 神、また城の守護神であつた。
 中世以降、山家神社も當時の神佛混淆の結果「白山大権 現」と稱し、白山寺と一緒にあり「白山様」と呼ばれてゐ たが、明治維新(明治二年)に神佛混淆が廃止され、社號を 舊来の山家神社に復した。

−『式内社調査報告』−



【 山家神社 山家神社本宮(印刷用ページ) 】

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