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志布比神社
しぶひじんじゃ
京都府京丹後市網野町浜詰大成829  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 丹後國竹野郡 志布比神社
旧村社

御祭神
櫛八玉比女命 鹽椎神 若宮大明神 豊受賀能咩命
御来屋大明神 木花開耶姫命

京都府京丹後市の網野町にある。
北近畿タンゴ鉄道宮福線・木津温泉駅の北3Kmほどの網野町浜詰に鎮座。
178号線を北上し、665号線へ入り、宿が密集している場所の奥。
海水浴場の脇の岬の先端部近くに境内がある。

参拝は炎天下の八月の午後。
岬への入口近くに「式内 村社 志布比神社」と刻まれた社号標が建っている。
海水浴客を脇に見ながら進むと、海岸沿いの道が通行止めになっていた。
仕方が無いので車を止めて、歩いて参拝。
300mほど歩くと、境内入口の鳥居が見えてくる。
鳥居の向かい側に灯篭と石碑が建ち、鳥居脇に穴が開いていた。

鳥居をくぐり坂道の参道を進むと階段があり、さらに鳥居。
その鳥居の奥に境内。
境内奥に社殿があるが、
拝殿の後方に本殿の覆屋がつながった形式で本殿は見えず。

社殿の右脇に赤い鳥居の境内社があるが稲荷社だろうか。
その右手に「愛宕神社参道」を書かれた案内があり
丘の上へと階段が続いていた。
階段の上には鳥居があり、丘の上には愛宕神社の社殿があった。

太平洋戦争中には、この丘の下に魚雷発射基地があったらしい。

創祀年代は不詳。
式内社・志布比神社の論社。

社伝によると、新羅国王の王子・天日槍命
九品の宝物を垂仁天皇に献上した。
その御座船は塩土翁(志布比の神)に導かれて当地に上陸したという。

日本で初めて当地に橘が伝わったため、橘の庄と名づけられ
その後、木津と書くようになったとも。

天日槍命は、塩比の浜に鎮座し、その地を宮故(クゴ)といい、
天日槍命が但馬へ移った後に社に祀られた。
その後、人家が周囲に建ち並び、穢れが多くなったので
志布比の浜に遷座された。

当社には、隠岐へ流された後醍醐天皇の御守神であり御来屋神である
伯耆国から流れ着いたと伝えられる厨子と木像が安置されており、
明治三十九年九月までは、当社は御来屋(みくりや)神社と称されていた。

また明治三十九年八月に若宮神社が合祀されており
「若宮さん」とも呼ばれているらしい。

汗まみれになって参拝を終え、海岸沿いの道を戻ると
海水浴客の歓声が聞こえた。
服を脱いで泳ぎたくなったが、後が面倒なので我慢して車に戻ると
車の中は熱気が充満していた。

地図を確認すると、志布比神社から少し先、
岬の先端部に恵比須神社があるようだが、
戻って参拝する気にはなれなかった。
涼しい季節で、車道が通行止めでなければ、戻っていたかも。


岬への道は通行止めだった

参道

社頭

入口向かいに灯籠や石碑

参道脇の穴

入口鳥居

参道鳥居

境内

社殿

社殿

社殿脇に境内社、稲荷か?

愛宕神社参道

愛宕神社参道

愛宕神社

志布比神社
 垂仁天皇の代新羅国王の王子、天日槍命が9品の宝を積み、 日本に来て天皇に献じた。この御座船を導いたのは塩土翁であ り、命が渡来最初の居を定めたのは塩比の浜の清い所で、ここ を「宮故」と名づけ、塩土翁は社を建てて祀った。翁が但馬に越 されて後、社のほとりに人家が建ったが、しばしばけがをした ので、社を志布比の浜へ移したといわれている。

−社頭案内板−



【 志布比神社 (網野町)(印刷用ページ) 】

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