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出雲路幸神社
いずもじさいのかみのやしろ
京都府京都市上京区幸神町303  Zenrin Data Com Maps display !!


十六八重菊

旧村社

御祭神
猿田彦神
相殿
天之御中主日御神 可美葦牙彦舅尊 天照皇太神 皇孫瓊々杵尊
天鈿女命 大国主尊 少彦名太神 事代主命

寺町通の南端、御所の鬼門(北東)にある。
もとは、賀茂川畔(青竜町)に鎮座していたもので、
道祖神を祀る神社だ。

創祀年代は不詳。
社伝によると、天武天皇の白鳳元年に再興され、
桓武天皇延暦十三年平安京の鬼門除守護神として造営されたという古社。

出雲(島根県)にも同名の神社が存在する。
どうして、「出雲路」なんだろう。
近くにあった式内社・出雲高野神社は、鎮座地が出雲郷内だったらしいが、
とすると、出雲郷にある、路の塞の神ということか。

「源平盛衰記」では、奥州名取郡笠島(宮城県名取市)にも、
「出雲路の道祖神」があるらしい。

境内はあまり、広くはないが、左側に末社が並び、
北東奥に、「大日本最初御降臨旧跡之地 猿太彦御神石」と記された。
垣に囲まれた「神石」がある。
境内の案内によると、本社も石神らしいが、よくわからなかった。

境内社は、三天社、稲荷社、竃神社、天満宮、淡島社、春日社、
厳島神社、稲荷神社、金毘羅社、疫神社。
神石の脇にも境内社が一つ。猿田彦命だと思う。

背の低い木々が茂り、垣の囲まれて、本殿は良くみえないが、
北東隅の神石が良い感じだ。

京都の路地奥にある、雰囲気も良い。


入口の社号標

鳥居扁額に幸神社

猿田彦大神

境内末社

拝殿

拝殿

本殿

境内北東、結界の中の石神

出雲路の道祖神社では、本殿の右裏手の 結界の中に鎮座する陽石が実質的な愛法神 の御神体である。狂言の「石神」には、夫 と離縁したい妻がこの石神で占いをする場 面がある。これは、相談をもちかけられた 仲人が「出雲路の夜叉神を引いてあなたの 心を決めなさい」と勧めたためだ。夜叉神 は石神(しゃくじんn)が訛ったという説もあるが、東寺 の夜叉神の例を思いあわせれば納得される 名だ。願いをかけながら石神を持ち上げて みて、上がればよし、上がらぬときは不成 就というのが「夜叉神を引く」占いの方法 である。これには裏があって、離縁したく ない夫は先回りして夜叉神に化け、何とか 妻を思いとどまらせようとするのだ。いざ 占おうとするとき妻が歌う、「わが恋は遂 ぎよずやらう、末遂ぎよずやらう、上がれ 上がれ、上が上がらしめの石神」という謡 から推測すると、恋の行方を占うために石 神を待ち上げてみる、というのが本来のあ り方のようである。 結局夫の企みは失敗し、妻が「やるまい ぞ」と追いかけて終わりになるが、不思議 なのはこの妻が、「私は神子の子孫だから 神に御苦労をかけたお詫びに神楽を舞って 帰りましょう」という狂言のせりふである。 神子とは巫女と同義だから、道祖神の前で 法楽の舞を舞う妻の姿に、愛法神を祀る伊 賀専女のような巫女の古代的イメージを重 ねあわせてみるのもいいかもしれない。

−『京都魔界めぐり』−


 当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年御再興、桓武天皇延暦十三年平 安京の鬼門除守護神として御造営あらせらる。
 延喜式によれば、外国使臣の来朝に際し洛中洛外の境たる当所に於て、使臣等の入 京に先立ち、祓の麻を賜ひ神事を修せしめられたことが見える。
 現今諸方の神社で御礼(大麻)御守(小麻)を授与する事の原形である今も内裏艮の 隅に、祓の忌串を案じ、遙に東北の天に向ひ、雲上飛翔の御神像安置され、此処を猿 ケ辻と称することは、世人のよく織るところで、当社神殿の艮(東北)の眉間にも、 同じ趣きの御神像を拝することが出来る。
 都の東北隅に「さいのかみ」を祀ることは、奈良の都以来のことで、当時すでに地方 の駅に於ても、このことが行はれた。
 朱雀天皇の天慶二年御分霊を内裏に奉遷、庚申祭御執行のこと「百練抄」並に社蔵の 旧記に見え、一条天皇の長保元年、天慶同様の御儀御執行のこと社蔵旧記に見える。 近衛天皇久安四年三月四日皇宮御炎上と同日御類焼のこと「本朝世記」に見え、後堀 河天皇の嘉緑二年、近隣民家の出火に御類焼のこと「明月記」によれば当時出雲路道 祖神と呼ばれていたことがわかる。御社号に幸の字を宛てた時代は判明しないが、天 和二年神主奥村右京の記した縁起、権律師長学院光栄の筆になる縁起に現社号を見る ことが出来る。
 当社の御分霊を祀りし伝承を持つ神社に、宮城県名取郡に正一位笠島道祖神(式内 佐具叡神社)があり。東京都西多摩郡幸神の幸神神社は、建武二年御分霊を奉斎せる 由を伝へている。
 応仁の乱に細川勝元この地に陣し、西の山名宗全と合戦、その兵火によって鳥有に帰 し、社地亦荒廃にまかせたが、祭祀の絶ゆることなく受け継がれ、後小松天皇の応永 年間、安部左近将監季英当社預りと見え、後土御門天皇の応仁年間には、安部伊賀守 季音、安部大蔵亟季敦等当社預りたりしことが当社の旧記に見える。  当社はその封境方一町と伝へるが、応仁の兵火の後、慶長年間豊臣秀吉京都を整備す るに際し、封域を割き縮小せしめられ、陰陽頭の私邸の神祠の如くして、僅に命脈を 保つにすぎなかった。天和二年、会津藩出身の奥村右京仲之神主として復興、次いで 東山天皇宝永二年、僧光栄立願再建に当り西隣を社地に編入、同三年神輿奉造。同五 年類焼の厄に逢ひ皆鳥有に帰したが、翌六年これを再建、東隣を購ひ社地に加へ、や や面目をい改め、鳥居建設、京極宮扁額御寄進あらせらる。寛保三年桜町天皇神輿御 寄進、寛延二年積年の功により社僧光栄権律師を勅許せらる。天明八年京都の大火に 御類焼御再建、天明四年両部を廃し神務職を復す。明治六年村社に列格、明治二十五 年公費供進社に指定、年三度の官祭に幣帛供進参向す。昭和二十年十二月十五日神社 神道官制廃止、その後、有志の護持厚く神社本庁に所属し今日に至る。

神奈備提供



【 出雲路幸神社 (上京区)(印刷用ページ) 】

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