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伊久比売神社
いくひめじんじゃ
和歌山県和歌山市市小路330
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式内社 紀伊國名草郡 伊久比賣神社 |
南海紀ノ川駅の東500m。高校の裏側にある。
境内は、それほど広くはないが、
拝殿前には、立派なクスノキがある。
社殿全部がクスノキの笠の下にあるような印象だ。
また、境内には周辺から合祀された小祠も多い。
楠見地区の中心的神社なのかもしれない。
市小路にあるためか、市姫大明神とも呼ばれたらしい。
通常、「市姫」とは、市の神・商業の神だ。
伊久比売については、よくわからないが、
「伊久」というのは、「生き生きした」という産霊的な意味。
農業神的な名前だな。
洪水や火災の為、文書等が残っていないので、創祀年代は不明。
天平年間異賊が襲って来た時、藤原貞国が将軍として追討し、
凱旋の後、神のお告げによって当社に賽幣したという。
その後、応仁の乱以後荒廃し廃絶したが、
徳川頼宣公の時になって、式内社・伊久比賣神社に比定され、
再興されたらしい。
拝殿内の幕には「桐紋」があったが、
本殿には金の「桃紋」が飾られていた。
同じく和歌山の須佐神社と同じ紋だ。
なぜだろう。桃紋は、なかなか珍しいのだが。
境内入口から拝殿まで、参道には灯篭が並び、
ひときわ大きなクスノキが目に入る。
明治に周辺にあった神社が、多く境内社として祀られている。
八幡・稲荷・吉野・住吉・八王子・八幡・八王子・八幡・
祇園・琴平・金刀比羅・九頭・妙見・春日・里神・楠本白龍など。
社頭 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
拝殿前のクスノキ |
春日神社、八幡神社 | 金比羅宮 |
境内社 | 境内社 |
市姫大明神ともよばれ、和歌山市楠見地区の
産土神。祭神は伊久比売神。旧村社。「延喜式」
神名帳に載る名草郡「伊久比売神社」に比定され、
「紀伊国神名帳」に「従四位上伊久比売神」とみえ
る。現社地のある地点について「続風土記」は、
古代を通じて紀ノ川の流路が不安定な地域で、
本来のものとは考え難いとして、「封初、伊久
比売神社の遺跡を尋させ給ひ、当社を其神社と
考定し、土人の称号を改められ、亨保十一年に
至り境内四至に禁殺生のフダを立られ、漸く古祠
の姿を復し給ふ」と記しており、式内伊久比売
神社とされたのは徳川頼宣が紀州に入国して以
後のこととしている。そのため、同書は山口荘
谷村(現和歌山市)山王権現(現山口神社)の項に「当
社山王社相殿に伊久津姫命を祀ると云伝るとき
は、恐くはこれ古の影の僅に遺れる所にして、
延喜式並に本国神名帳に載する所の伊久比売神
ならんか」として、伊久比売神社の本来の鎮座
地を同地に求めている。同地は現在地から紀ノ
川を約一○キロ上流にさかのぽった所であるが、
「続風土記」自身もこの説については「其証とす
へき事なきを以て妄に改めす」として、慎重な
態度をとっている。最近の自然地理学的研究に
よると、現社地は平安時代に海中や河道内では
なかったことが明らかにされ、紀ノ川の一本流
は現社地の北方を流れていたとされる。したが
って、当社は古くから現在地にあった可能性が
あり、楠見一円の氏神的な神社であったと推定
される。ただし先述したように社とされたのは
江戸時代であり、なお検討すべき余地を残す。
−『大和・紀伊 寺院神社大事典』− |
【 伊久比売神社(印刷用ページ) 】