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鵜戸神宮
うどじんぐう
宮崎県日南市大字宮浦3232  Zenrin Data Com Maps display !!


十六八重菊

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旧官幣大社

御祭神
鸕鷀葺不合尊 大日孁貴尊 天忍穂耳尊 彦火瓊々杵尊 彦火々出見尊 神日本磐余彦尊

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宮崎県日南市にある。
日向灘に沿って走る220号線のそば、
日南線の伊比井駅と油津駅の中間あたり。
日向灘に突き出た岬にあり、岬全部が境内だから、とにかく広い。

観光バスのための大きな駐車場があり、
八丁坂を通る旧参道と、トンネルを通る新参道がある。

旧参道を進むと、累代別当宮司の墓があり、さらに進むと鳥居。
新参道を合流して、神門をくぐると、
参道脇に稲荷神社があり、吾平山上御陵へ向かう登山口になっている。

参道を進むと、朱の楼門。
楼門をくぐり、緩やかに坂道が続く。
千鳥橋、玉橋を渡ると、下りの階段。
この階段を下ったところにある、洞窟の中に社殿が祀られている。
一説に「日本三大下り宮」の一つであるらしい。

階段を下って左手、洞窟の入口に鳥居が建ち、
右手には日向灘の奇岩がある。
手前の石は神石といい、運玉を投げる的。
洞窟内で売っている運玉を、男性は左手で、女性は右手で玉を投げ、
亀石の窪みに入れば願いが叶うという。

社伝によると、崇神天皇の御代、
大日孁貴尊以下八柱の神を天然の岩窟内に奉祀して鵜戸神社と称したのが当社の起源。
推古天皇の御代、神殿を造営し、
桓武天皇の延暦元年、天台僧光喜坊快久が初代別当となって神殿を再建。
当時は寺院・僧堂も備えて鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の勅号を賜った。

明治維新によって、権現ならびに寺院を廃し、鵜戸神社と改称。
明治二十八年十月二十九日、官幣大社に列した。

背後の吾平山は、祭神・鸕鷀葺不合尊の山陵と言われている。
ただし、現在は鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山上陵が正しいと考えられており、
現地には郷社・鵜戸神社が存在する。

神域が広いが、特に禁足地が無いので、ゆっくりと雰囲気を味わえる。


観光バス駐車場側の鳥居


新しい社号標

旧参道階段の八丁坂
新参道はトンネルになっている


古い社号標

参道鳥居

神門

楼門

楼門から緩やかに下り

橋を渡って

階段を下る。左洞窟内に社殿。右の岩が霊石亀石

階段下、洞窟前の鳥居

運玉の的の霊石亀石

洞窟内の拝殿

福智神社 仁徳天皇
住吉神社 住吉三神
火産霊神社 火産霊神



皇子神社 彦五瀬命

九柱神社
神直日神大直日神伊豆能売神
底津綿津見神中津綿津見神上津綿津見神
底筒之男命中筒之男命上筒之男命

なでうさぎ

ごれい石

お乳岩

産湯の跡

鵜戸神宮 旧官幣大社
日南市宮浦 日豊本線 南宮崎駅より四四粁 パスあり
祭神 鸕鷀葺不合尊 大日孁貴尊 天忍穂耳尊 彦火瓊々杵尊 彦火々出見尊 神日本磐余彦尊
例祭 二月一日 本殿 八棟造朱塗 四九坪 境内 一二六、五五八坪 摂末社 八社
宝物 日輪瓊、潮干瓊、潮満瓊、岩笛
氏子 一五一戸 崇敬者 全国に亘る
由緒沿革 本宮は崇神天皇の御宇大日孁貴尊以下八柱の神を天然の岩窟内に奉祀して鵜戸神社と称したという。之を本宮の創祀とする。推古天皇の御代神殿御造営の事あり、次で桓武天皇の御代、光喜坊快久は神殿を再建し、鵜戸山大権現仁王護国寺の勅額を賜った。後島津氏の時より尊崇深く、飫肥藩より社領を寄附した。永禄三年領主伊東義祐は神殿を再建し、宝永五年伊藤裕実が神殿を造営し奉った。正徳年中再度神殿造営の事あり、明治七年鵜戸神宮と改称し、同二八年官幣大社に列す(神社本庁別表神社)

−『神社名鑑』−


山全体が神域で禁猟区のため、山道には猪も出る。
山頂の吾平山上御陵へ行き、降りる途中に数頭の猪と出会った。
「ブヒブヒ」という泣き声と共に、左右の茂みに逃げ込んで行った。
はじめて野生の猪と遭遇し、しばらく動けなかった。

山を越えて、反対側に、海水で浸食されて出来た洞窟に波切神社がある。
少し暗く、波が入りこんでおり、不気味な雰囲気だった。
一人で佇むには、ちょっと薄気味が悪く。急いで山道を戻った。


参道横の稲荷神社。吾平山上御陵と波切神社への登り口がある。

吾平山反対側の洞窟に波切神社

波切不動

波切神社

山頂の吾平山上御陵 祭神の陵墓参考地


【 鵜戸神宮(印刷用ページ) 】

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