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小田井縣神社
おだいあがたじんじゃ
兵庫県豊岡市小田井町15−6  Zenrin Data Com Maps display !!


抱き沢瀉

式内社 但馬國城崎郡 縣神社
旧県社

御祭神
國作大己貴命

兵庫県豊岡市にある。
山陰本線・豊岡駅の北東1Kmほどの小田井町に鎮座。
豊岡駅から北東へまっすぐ、ロータリーを越えて
426号線を進み、円山川に突き当たった場所。
堀川橋の手前に境内入口がある。

参拝は、五月の休日の早朝、日の出の頃。
といっても朝霧が立ち込めて、
日が出ているのかどうかわからない。
そんな日の参拝。

境内入口に到着した時には、まだ暗かったが、
境内に入った頃から、少しずつ明るくなり始めた。

鳥居をくぐり参道を進むと神門。
神門を越えると境内があり、正面に拝殿。
拝殿の後方に、流麗な春日造本殿がある。

拝殿の柱に、猫除けの超音波装置が付いていたが
猫が住み着いているのだろうか。
センサーは賽銭箱に向けられていたが。

創祀年代は不詳。
式内社・縣神社に比定されている古社。

祭神は、当地開拓の祖神・国作大己貴命

第十代崇神天皇の御代、
小田井縣主が、四道将軍谿羽道主命に、その偉徳を伝え
谿羽道主命、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上。
十一年甲午春の三月十四日、勅許を得て神霊を鎮祭。
一社を創立して、大己貴命及び天火明命を祀ったという。

神功皇后新羅征伐の際、
小田井縣主が、勅を奉じて大海童神を当社・下座に配祀した。

『神社調書』には、祭神として
天照國照櫛玉饒速日天火明命を相殿に祀るとあり、
大海童命の名前もある。
また、祭神を宇麻志摩遅命とするものもあり、
『新撰姓氏録』に「縣使首、宇麻志摩遅命之後也」とある。

また、当社は但馬国五社大明神の一社。
ちなみに、五社大明神とは、
粟鹿大明神出石大明神養父大明神小田井大明神絹巻大明神

当社の神紋は、沢瀉(オモダカ)紋。
拝殿の幕や社殿のアチコチに付けられている。
拝殿にぶら下がっていた提灯には、
沢瀉と桐の紋が染められていたが、桐紋も当社の神紋なのだろうか。

境内の右手に境内社が並んでいる。
奥から、稲荷社(豊遠加姫命)、恵比須社(事代主命)、
柳の宮(五男三女神)、川下社(祓戸四柱大神)。

資料には、境内社は五社とあり
杉森神社、河崎神社、夷社、稲荷神社、清所神社の名前がある。

たぶん、杉森神社が柳の宮、清所神社が川下社のことだろう。

河崎神社(菅原道真公)は、境内で確認できなかったが
霧が深かったので見落としたのかもしれない。


境内入口

境内参道

神門

朝霧の境内

拝殿

拝殿

本殿

稲荷社(豊遠加姫命)

恵比須社(事代主命)

柳の宮(五男三女神)

川下社(祓戸四柱大神)

御由緒
小田井縣神社は、延喜式神名帳(九〇五年)に記されている。いわゆる式内神社であって、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第十代崇神天皇の御代(前八六年)の十一年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
弘安年中(一二七八年〜一二八七年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。
元弘三年(一三三三年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。
天正三年(一五七五年)十月、垣矢筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたといわれています。天正年中(一五七三年〜一五九一年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微しました。
貞享年中(一六八四年〜一六八七年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(一七三六年〜一七四〇年)神殿を改造しました。現今の春日作の社殿がそれであります。
明治六年(一八七三年)社格が定められ県社に列しました。
明治十一年(一八七八年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。
昭和六年(一九三〇年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和四十四年(一九六九年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和二十五年(一九五〇年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。


−『平成祭データ』−



【 小田井県神社 小田井縣神社 (豊岡市)(印刷用ページ) 】

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