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五十君神社
いきみじんじゃ
新潟県上越市三和区所山田字鳥居場550

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式内社 越後國頸城郡 五十君神社 |
上越市(旧三和村)にある。
持っていた地図に神社が記載されていたので、行ってみたら違う神社だった。
地方の式内社が地図に載っているのも珍しいが、間違いがあるので困る。
その神社周辺の田で作業をしていた人に場所を聞いた。
道沿いの開けた場所に鳥居があり、奥に道が続く。
道は狭いので、農耕車以外には入らないほうが良い。
僕は奥まで入ってしまい、車を止められず、
苦労してUターンして戻ってきた。大変だった。
木々の繁った暗い参道の先に、開けた境内がある。
雑草もなく、綺麗に整備されていて気持ちが良い。
昔の写真では、拝殿は茅葺きだったが、今は銅葺きだ。
「五十君」と書いて「いぎみ」と読むが
古来「いそきみ」「いちきみ」「いちぎみ」「いほきみ」などとも読まれたようだ。
創祀年代は不詳。
はじめ五十君山に鎮座していたが、
後に現在地に遷座。
式内社・五十君神社に比定されている古社。
社伝によると、祭神・五十日帶日子命が
大賀・不尽の二臣を従えて来国し、池溝の開発にあたったが
この地で崩御された。
二臣は当地にとどまり、五十日帶日子命の神霊を奉祀したのが起源。
鳥居 ![]() | 境内入口 ![]() |
暗い参道 ![]() | 境内の石祠 ![]() |
境内 |
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本殿 ![]() | 社殿 ![]() |
祭神の五十日帶日子命は大賀・不盡の二臣を従へ
て越後国に下り、池溝開発にあたつたが、頸城郡高志八岐
村(今日の所山田)で崩御された。そこで大賀・不盡の二臣
はこの地にとどまり、命の神霊を奉祀した。十二代景行天
皇の御宇に一社を建立し、五十王神社と称した。神亀三年
(七二六)、勅命により五十君神社と改めたといふ。『越後頸
城郡誌稿』には大宝三年(七〇三)三月三日勧請とある。
『神社明細帳』によると、弘仁四年(八一三)七月に神位を
授かり、建仁二年(一二〇二)二月に正三位を賜はつてゐる。 永録三年(一五六〇)九月十九日、関白近衛前嗣が西洞 院時房等を従へて越後へ下向した際、五十君神社の神主が 故あつて奉仕者に選ばれた。神主が関白に従つて上洛した ので、その跡を郡司が社務を預かつた。翌年、再度下向し た前嗣は五十君神社に参拝し、社前に咲く梅花を畫き、自 ら讃をして神前に奉納したといふ。上杉謙信は五十君神社 を祈願所とし、永録六年十一月、社用人馬通行の朱印状を 与へ、翌七年六月三日、祈願料として五七貫五〇四文を寄 進した。天正八年(一五八〇)四月三日、上杉景勝は社境の 制札を掲げた。春日山城主堀秀治が福島築城にあたつて神 社の大木を伐採したと伝へてゐる。慶長十五年(一六一〇)、 松平忠輝は社地を安堵した。慶長年間、高志八岐村を諸山 田村に改め、天和年間に所山田に改めたといふ。天和三年 (一六八三)の検地で、徳川幕府から除地高四石六斗三升一 合、社地九町六反歩が付与された。明治六年、第十大区小 七区の村社に列す。 −『式内社調査報告』− |
【 五十君神社(印刷用ページ) 】
