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式内社 越後國頸城郡 五十君神社 旧村社 五十日帶日子命(十一代垂仁天皇第五皇子) 配祀 劍大明神(日本武尊 or 白鳥大明神),飯縄大明神(倉稻魂命) 五十日足彦 『越後野志』 諾册乎 『神名帳考證』 級長津彦,級長戸邊命 『越後國式社考』 五十猛命,木種大明神 『北越後風土記節解』 五十日足彦命,木種大明神 『頸城郡誌稿』 物部印岐美連 『特選神名牒』 五十日帶日子命 『神社由緒書き』 五十日帶子命 『神社明細帳』 |
上越市(旧三和村)にある。
持っていた地図に神社が記載されていたので、行ってみたら違う神社だった。
地方の式内社が地図に載っているのも珍しいが、間違いがあるので困る。
その神社周辺の田で作業をしていた人に場所を聞いた。
道沿いの開けた場所に鳥居があり、奥に道が続く。
道は狭いので、農耕車以外には入らないほうが良い。
玄松子は、奥まで入ってしまい、車を止められず、
苦労してUターンして戻ってきた。大変だった。
木々の繁った暗い参道の先に、開けた境内がある。
雑草もなく、綺麗に整備されていて気持ちが良い。
昔の写真では、拝殿は茅葺きだったが、今は銅葺き。
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祭神の五十日帶日子命は大賀・不盡の二臣を従へ
て越後国に下り、池溝開発にあたつたが、頸城郡高志八岐
村(今日の所山田)で崩御された。そこで大賀・不盡の二臣
はこの地にとどまり、命の神霊を奉祀した。十二代景行天
皇の御宇に一社を建立し、五十王神社と称した。神亀三年
(七二六)、勅命により五十君神社と改めたといふ。『越後頸
城郡誌稿』には大宝三年(七〇三)三月三日勧請とある。
『神社明細帳』によると、弘仁四年(八一三)七月に神位を
授かり、建仁二年(一二〇二)二月に正三位を賜はつてゐる。 永録三年(一五六〇)九月十九日、関白近衛前嗣が西洞 院時房等を従へて越後へ下向した際、五十君神社の神主が 故あつて奉仕者に選ばれた。神主が関白に従つて上洛した ので、その跡を郡司が社務を預かつた。翌年、再度下向し た前嗣は五十君神社に参拝し、社前に咲く梅花を畫き、自 ら讃をして神前に奉納したといふ。上杉謙信は五十君神社 を祈願所とし、永録六年十一月、社用人馬通行の朱印状を 与へ、翌七年六月三日、祈願料として五七貫五〇四文を寄 進した。天正八年(一五八〇)四月三日、上杉景勝は社境の 制札を掲げた。春日山城主堀秀治が福島築城にあたつて神 社の大木を伐採したと伝へてゐる。慶長十五年(一六一〇)、 松平忠輝は社地を安堵した。慶長年間、高志八岐村を諸山 田村に改め、天和年間に所山田に改めたといふ。天和三年 (一六八三)の検地で、徳川幕府から除地高四石六斗三升一 合、社地九町六反歩が付与された。明治六年、第十大区小 七区の村社に列す。 −『式内社調査報告』− |
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