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大星神社
おうぼしじんじゃ
[長野旅行] 長野県上田市中央北3−4−1  Zenrin Data Com Maps display !!


諏訪梶

旧県社

御祭神
建南方命 前八坂刀賣命 事代主命

長野県上田市にある。
上田駅の北2Kmほどの中央北に鎮座。
18号線と18号バイパスの中間あたり、
小学校の北側に広い境内がある。

上田城の北東にあり、上田市のシンボル太郎山の南麓にあって
上田の鎮守の社であり、明治期には上田神社と称した神社。

境内入口は道路に面して東向き。
鳥居をくぐり参道を進んで右に曲がり参道を北上する。
途中に石鳥居や朱の鳥居があり、参道は100m近くある。

参道の正面に瓦葺入母屋造の堂々とした拝殿があり、
拝殿の後方、朱の板垣に囲まれた朱の本殿がある。
本殿の形は流造。屋根は銅板葺きのようだ。

以前住んでいた家の近くにあり、
いつも社前を車で通っていた神社。
歩いて行くには遠いけど、車で行くには近すぎる距離で
参拝する機会が少なかった。

参道の右手には境内社の天満宮や神明像、石仏などがあり
本殿の左手には弥栄神社の祠。
境内の左手には、上小蚕糸業同盟会が造営した
養蚕国神社が祀られている。

創祀年代は不詳。

当社の起源は、当社北東にある前方後円墳を奉斎するため
里人がこの地に宮社を創建したという。

社伝によると、
醍醐天皇延長二年(924)社殿が改築されたとあり
平安以前から存在していた古社。
一説には、延長二年に諏訪神を勧請したとあり、
勧請以前は古墳の主を祀っていたのかもしれない。

一条天皇寛和二年(986)花山院法皇が当社に参拝し
所感によりて、勅額三面(大法性、大法師、大星)を奉納。
ゆえに、明治初年まで大星明神と称されていた。

鎌倉幕府は地頭上田太郎佐恭に下知し社殿を造営。
文明年中、海野信濃守幸が社頭を造営。
永正年中、村上信濃守顕国は神領を寄進。
永正十四年、嫡男頼衡家督相続の時も神領を寄進。

天文年中、武田信玄上田原合戦に際し祈誓文を捧げ
天正十五年、真田安房守昌幸が神領九百五拾文を
慶長六年、真田伊豆守信之は神領五貫参百五拾文を寄進。

当社は古来、軍旅旱霖疾疫の時に領主より臨時の奉幣があり、
特に、江戸時代の貞享年間の旱魃に際し、祈雨の霊験があったという。

現在の社殿は、寛保元年、出羽国上山城主松平山城守信将が再建したもの。
信将は上田城で生まれたらしい。

明治六年村社に列し、
明治十一年大星明神を上田神社と改称して郷社に昇格。
昭和二年県社に昇格し、昭和十六年、上田神社を大星神社と改めた。


境内入口の鳥居

参道鳥居

参道鳥居

参道右手の天満宮

境内

拝殿

本殿

境内社殿

蚕養國神社

弥栄神社

祭 神事代主命
建御名方刀美命
前八坂刀売命
由 緒
創立年月日不詳であるが社伝に人皇六十代 醍醐天皇延長二年社殿改造の事あり、また寛和 二年花山院法皇御拝所感あって勅額三面(大法 性大法師大星)を納め賜うよって明治初年 まで大星明神とほ奉称した
鎌倉時代は地頭上田太郎佐恭に社殿を造 営させ文明年中海野信濃守幸氏は社頭を 造営し永応年中領主村上信濃守顕国、同十四年 嫡男頼衡各神領を寄進、武田信玄は上田 原合戦に祈誓文を捧げ、天応十五年真田安房 守昌幸九百五拾文、慶長六年真田伊豆守 信之五貫参百五拾文と各神領を寄進す また当社を産土神とする出羽上山城主松平山 城守信将は寛保元年に社殿を造営した、
明治十一年六月大星明神を上田神社と改め昭和 二年十二月二十四日県社に列格、昭和十六年九月 大星神社と改称し奉る

−境内案内板−



大星神社 由緒
創立年月不祥なりと雖も蓋し当社の基源は住昔現在当社神域の北東に位し 社域と接続せる前方後円の瓢形の古墳あり (之れが尊霊を奉斎する為め当時附近集落の里人此の地に宮社を営みしに始れるものゝ如し)
社伝に曰く人皇六十代醍醐天皇延長2年社殿改造の事あり此時神異ありとか 一条天皇寛和2年花山院法皇御密行の砌り当社に御参拝あり所感に因て 勅額三面(大法性、大法師、大星)を納め賜ふと 故に明治初年迄当社を大星明神と称へ奉れりと云う、 後鎌倉幕府に於ても深く尊崇せられ時の地頭上田太郎佐恭に下知し社殿を造営せられ 次て文明年中海野信濃守幸氏崇敬厚く御社頭を造営あり 永正年中には領主村上信濃守顕国神領を奉り同14年に嫡男頼衡家督相続の時神領を寄進すとあり、 天文年中には武田信玄上田原合戦に際し祈誓文を捧げ 天正15年に真田安房守昌幸神領九百五拾文 慶長6年に真田伊豆守信之神領五貫参百五拾文を寄進せられたる文証今尚存す 後続て仙石家松平家歴代の領主何れも尊崇篤く 殊に出羽国上山城主松平山城守信将は当地誕生産土神の故を以て崇敬厚く 寛保元年に社殿を造営せられたり随て宝物の如きも累代の領主武将の奉れる甲冑武器の類少からず
明治6年4月村社に列し 明治11年6月官許を得て大星明神を上田神社と改称 同年同月郷社に列し昭和2年12月24日県社に列格し 更に昭和16年9月官許還元大星神社と奉称す

−『平成祭データ』−


当社の北東、道路を挟んだ位置に、当社起源に関る前方後円墳がある。
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前方後円墳の形状からか、二子塚古墳と呼ばれ
6世紀前半のものと推測されている。

前方部の上には二子神社の石祠があり、
後円部の上には秋葉神社の社殿がある。

二子神社の祭神は武五百建命。
武五百建命は神八井耳命の孫で、崇神天皇により科野国造に任命されている。

本格的な発掘調査は行われていないらしいが、
ひょっとすると古墳の被葬者は武五百建命なのだろうか。
であれば、大星神社は本来、武五百建命を祀った神社なのかもしれない。


二子塚古墳

前方部に二子明神

後方部に秋葉社

市指定記念物(史跡)
文化財保護条例第五条の規定により左記の通り指定する
一、種別記念物(史跡)
一、名称二子塚古墳
一、所在地上田市大字上田字秋葉裏二四九八番地
一、指定年月日昭和四十三年四月二十五日
前方部を北西五十度に向け後円部は南東五十 度におく後円部は秋葉社奉祝(宝永年中)にため東 部北西部は石垣積みとし頂部平坦面で外形不 完全ながら楕円形に残っている。前方部は上部を 石垣積みとなし二子明神を祠り(今はない)原形を甚しく 変えている殊に後円部前方部のくびれの封を削り 移し原形は判然としない。東北に周湟の跡を残している 培塚を推定五基持つ古墳時代中期のものとして 原形は甚しく変形しているが小県、佐久地方唯一の前方 後円墳として貴重なものである。
後円部(径)二十二メートル高さ四メートル長軸四十八メートル
 前方部(巾)十八メートル高さ四メートル
保存上の注意
墳丘上の樹木を伐採し封土の崩壊を防ぐこと
墳丘外の樹木を伐採することを禁ず
指定文化財周辺の環境を整理整とんすること
許可なく現状変更を禁ず

−境内案内板−

当社の南1Kmほどの町中に当社の里宮がある。
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境内には天神天満宮の小祠が祀られている。


里宮境内


最終更新日:2013/10/09
【 大星神社 (上田市) 】

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