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式内社 信濃國小縣郡 山家神社 旧県社 御祭神 大己貴命 菊理姫命 伊邪那美命 日本武尊 山家神社公式サイトを開く |
長野県上田市(旧真田町)にある。
上田菅平I.C.から144号線を北東へ7Kmほど。
真田町で、脇道(沼田街道・上州街道)へ入ると道沿いに鳥居がある。
当社から北東へ10数キロの位置に四阿山(2354m)がある。
山頂に当社・山家神社奥宮が鎮座しており、当社は里宮にあたり、
山家神社本宮と呼ばれている。
四阿山山頂の奥宮は二社あり、
南向きの社を信州向社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)と呼ぶ。
明治までの神事に、神送り・神迎えの神事があった。
6月15日、本宮より親神様を涼しい奥宮へ送り、子神様を本宮へ迎える。
11月17日には、逆に、親神様を本宮へ迎え、子神様を奥宮へ送る。
ただし、親神・子神が逆であるという伝承もあり、
さらに、6月に菊理姫命を奥宮へ、伊邪那美命を本宮へ、
11月には、その反対を行うという伝承もある。
伊邪那美命・菊理姫命の関係を、親神・子神と見ていたかどうかは不明だが、
そう、仮定すると、当地を「黄泉国」と見ることもできそうだ。
境内には、真田神社が祀られている。
大正八年、境内に遷されたもの。
真田町は真田氏一族の土地で、代々、山家神社を崇敬していた。
本宮社殿には、「巴紋」と「真田銭」の紋様をつけた幕が掛かっていた。
真田銭は、通称、六文銭と呼ばれるもの。あるいは、六道銭とも。
社殿の屋根には、さらに「桐紋」と「永楽紋」も付いていたが、
出処は不明。社殿奉納者の紋である可能性もあるが。とりあえず載せた。
鳥居は、渋い茶色で、落ち着いた雰囲気が漂っている。
社殿の造りが変っている。
社殿の後方から、左に境内社が幾つか並んでいる。
浄定社・比枝社・大歳御祖社・建雄社・愛宕社・子安社・阿夫利社
金比羅社・諏訪社・駒形社・稲荷社・北野社・雨降社・七家明神社
雨降社とあるが、当社奥宮では「雨乞い神事」が行われる。
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創立年は不詳であるが、大己貴命を祀つて舊山
家郷の産土神としたものである。社傅に本社の別當浄定と
いふもの越の泰澄の徒弟にして加賀の白山比咩神杜を信
仰し、其の神霊を勧請し、養老二年奥社を四阿山絶頂に奉
遷す、とある。この奥社は二社あり、南向きの社を信州向
社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)といふ。本社
はもと舊字古坊に鎮算してゐたが、文徳天皇天安元年(八
五七)六月十六日、暴風雨洪氷にして社殿を崩壊し、神森
を押し流して現在の地に遷つたと傳へられてゐる(此の時
神主清原真人某は姓を押森と改稱すと傳ふ) 『神祇志』に「山家神社、今在二四阿山上一、即古山家郷 之地、郷名今存二于眞田村一、其他又有二一祠一、曰二山家社二、 盖後世所二分祠一也。」とあり、『神祇志料』には「山家神 社、今眞田村山家にあり、白山神と云ふと見ゆ。」とある。 古来、國司、守護職、武門武将より一般民衆に至るまで 崇敬極めて厚く、特に眞田氏代々の崇敬深く、奥宮並ぴに 本宮の営繕及び寄進をうけてゐる。文和八年(一三五九) 一月仙石氏上田入部以夾、忠政、政俊、政明三代八十五年 間、営繕を始め祭典費等の寄進をうけ、更に寶永三年(一 七○六)松平氏上田入部以後明治四年廃藩置縣に至るまで の間、崇敬深く、祭典費はもとより営繕費その他に至るま で一切藩費をもつてせられた。當時は、上田城の鬼門除の 神、また城の守護神であつた。 中世以降、山家神社も當時の神佛混淆の結果「白山大権 現」と稱し、白山寺と一緒にあり「白山様」と呼ばれてゐ たが、明治維新(明治二年)に神佛混淆が廃止され、社號を 舊来の山家神社に復した。 −『式内社調査報告』− |