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矢彦神社
やひこじんじゃ
[長野旅行] 長野県上伊那郡辰野町大字小野3267  Zenrin Data Com Maps display !!
信濃なる伊那の郡のおもふにも たれか憑の里といふらん

三つ巴

旧県社

御祭神
正殿 大己貴命 事代主命
副殿 健御名方命 八坂刀賣命
南殿 天香語山命 熟穗屋姫命
北殿 神倭磐余彦命 誉田別命
明治宮 明治天皇

長野県辰野町にある。
中央本線・小野駅の北800mほどの小野に鎮座。
153号線(三州街道)に面して南東向きの境内入口がある。
当社境内の北には小野神社が鎮座。
小野神社と矢彦神社が、同じ規模の境内で並んでいる
というより、両社の間に垣や塀などはなく、社地境界標の石柱のみ。
通称を「頼母の森」「憑の里」と呼ばれる、一つの境内に
並んで鎮座しているような状態が面白い。
昔は両社合わせて「小野南北大明神」とも称されていた。

「憑の里」は「たのめのさと」と読み、万葉集にも
「信濃なる伊那の郡のおもふにも たれか憑の里といふらん」
と歌われた有名な地らしい。

当社は辰野町に鎮座しているが境内周囲は塩尻市。
天正十九年(1591)、松本領と飯田領の間で領地争いが起こり
小野盆地は、北小野と南小野に分割された。
小野・矢彦両社の鎮座する森は、北小野(現塩尻市)地籍となり
境内は南北に分断され、当社矢彦神社は南小野の飛び地となったという。

鳥居をくぐり参道を進むと、正面に神楽殿。
神楽殿の後方に勅使殿があり、その奥に拝殿。
拝殿の左右に回廊があり、垣に囲まれて本殿などがある。

本殿などの社殿は、正殿、副殿、南殿、北殿、明治宮とあるらしいが
垣に囲まれてよくわからなかった。
拝殿の格子からのぞいてみると、正面に四棟並んだ社殿があり
その後方に幾つかの社殿がある様子。
前方の四棟並んだ祠は境内社だろうか。

拝殿、左右回廊、神楽殿、勅使殿の五棟が県宝に指定されている。

創祀年代は不詳。
社伝によると、
日本武尊東征のおりの行在の地であり、
延暦年間、坂上田村麻呂東北征伐の際にも戦勝祈願したという。

小野神社と共に信濃国二之宮として尊崇された神社で、
当地開国の四神を祀り、本郡五十四カ村の総鎮守。

欽明天皇の大御代奉幣の典があり
天武天皇の大御代勅使高根使主が参向し
勅使殿が創立されたという。

源氏、小笠原氏、武田氏の庇護を受け、
木曽義仲が戦勝を祈願して社殿の造営した。
また、徳川家からは、
七年に一度の式年祭に木曽山林新宮造営材の寄進を受け、
御柱祭には、高遠藩から御柱人足500人が派遣され、
十石の朱印領を寄進された。

明治五年郷社に列し、明治三十三年県社に列した。

明治天皇御存命中に、我が国最初に生祠として祀った。

矢彦神社という社名に関して、
越後国一之宮である弥彦神社 とは関係ないのだろうか。
もし関係があるのなら、当社本来の祭神は、
南殿に祀られる天香語山命ということになる。
また、天香語山命は諏訪神鎮座に大きく関ったことになるのだが。

拝殿の幕に、三つ巴の紋が付けられていた。

垣内に四棟並んだ境内社らしき祠のほかに
境内左手にも境内社があり、
さらに、境内左右の池の中にも祠がある。

当社の摂末社に関しては、
『平成祭データ』には御射山社のみが載っており、
『明治神社誌料』には、伊勢宮、身形宮の名がある。


社頭

鳥居

参道

境内

神楽殿

勅使殿

社殿

社殿

垣内の境内社

本殿など

本殿の横に入母屋の社殿も

本殿後方から

一之御柱

二之御柱

三之御柱

四之御柱

境内左手の境内社

小野神社との社地境界標

境内左手の池と祠

境内右手の池と祠

矢彦神社御由緒

矢彦神社は、信濃国二の宮であり、上伊那郡五十四か村の総鎮守である。遠い神代の昔、大己貴命は御子、事代主命建御名方命をしたがえて、国めぐりをしつつ国造りの神業にいそしまれたが、その折しばらくの御在所をこの里の彌比古澤の須賀の地に定められた。また、日本武尊が、東征凱旋の時たち寄られた。古くから皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばあった。成務天皇の御代、勅使参向奉幣され、勅使の子孫が永く本社に奉仕した。
欽明天皇の御代、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿におまつりし、両殿を須賀の宮と称した。また、天香語山命と、熟穂屋姫命を南殿におまつりし、矢彦神社としてのかたちがととのった。そして例祭日を毎年八朔(八月朔日)と定め、田ノ実(たのめ)祭といった。千四・五百年の昔のことである。
天武天皇の御代、奉幣使高根使主(たかねのおみ)を迎え、勅使殿を創建した。このとき新宮を造営し正遷宮祭と御柱祭が七年毎の式年祭と定められた。白鳳2年(674年)のことである。また伊勢の両皇大神を境内にまつり、日本武尊の御狩場のあとに春宮、御射山の両社を建て、春は4月15日,秋8月27・28日神事を斎行し、この御射山に御神霊の渡御をねがい神事がとり行われた。
桓武天皇の延暦22年(803年)征夷大将軍坂上田村麿は、安曇郡の凶賊を討つため、本社に祈願した。このとき剣と弓を納め、また、別当神光寺を開基し、神社境内に本地堂を建立した。神光寺は、大和国泊瀬(はつせ)長谷寺の末派で矢彦神社の別当として長く久しい間、村の祭と常の生活を大きな力で動かして来たが、明治初年になり、神仏混淆の禁令により廃寺となった。
清和天皇の御代には神倭磐余彦天皇神武天皇)を北殿におまつりしたが、光孝天皇仁和3年(888年)の大地震にあって社殿は宝物殿を残してことごとく潰え、生き残る社人はわずか2人であったといわれる。こうして衰微はその極に達し、その上権門の庇護もなかったため、醍醐天皇の御代、延喜式を撰せ給うに当たっては式内社の栄に浴することができなかった。
後冷泉天皇天喜4年(1056年)源頼義は、奥賊を討つため本社に戦勝の祈願をこめ、翌5年、誉田別天皇応神天皇)を北殿にあわせまつり弓矢を献じた。源義家も父頼義のあとを慕って北殿を若宮と称し、社殿を修復し、鍛金の三つ巴記章を奉納した。当神社の神紋は、ここに定まったといわれる。康平3年(1060年)安曇郡仁科の国司一条飛騨守祈願し、鳥居を建て、安曇郡の内沢渡・木船の二か村を神領に献じた。
高倉天皇の御代、木曽義仲かねて源家再興を当社に祈願、木曽谷から家人を参詣させていたが、寿永年中(1182年〜1183年)、平氏追討の軍を本社にそろえて戦勝を祈願し大勝した。そこで義仲は、宮材を木曽山林から伐り出し、社殿を造営し、祈願が成就したお礼参りをした。式年造営材が、寿永年間から慶応3年(1867年)に及ぶ約七百年にわたって木曽山林から出材された典例は、ここから始まった。ついで義仲は、川中島の小布施外六か郷を神領に寄進した。
後鳥羽天皇の御代、建久4年(1193年)、武田信義の尽力により、鎌倉幕府から造営材の献納があり、社殿の壮観はいにしえにかえった。
花園天皇の御代正和2年(1313年)安曇郡北原の城主原義国本社の神領川中島七か郷の掠奪を企てた。郡中の神官氏子これに応戦したが、味方ことごとく討死し、ついに義国のため神領を奪われ社殿を焼滅させられた。
後村上天皇の正平6年(1351年)筑摩郡井川の城主小笠原信濃守長政は本社の荒れ果てたのを嘆き、神殿を修造、復元させた。
後花園天皇の永享7年(1435年)井川城主小笠原治部大輔政康勅使殿を再建する。後奈良天皇天文年間(1532〜1534年)武田晴信(信玄)朱印をよせて、神領を旧に復し、式年祭には諸役を免じ、祭費を補った。その子勝頼は永禄七年(1564年)武運長久を祈って大鐘を献じ、同9年(1566年)には商関を設け、商人や駄馬に課税してそれを、式年祭の費用にあてることを許された。天正10年(1582年)小笠原貞慶旧封復帰の記念として灯明料一貫二百文の地を奉献する。
後陽成天皇の御代慶長五年(1600年)朝日受永が徳川幕府の命により本郡の代官となり、所領の内高十石をさいて神領として寄進した。
後光明天皇の御代慶安2年(1649年)徳川家光より神領として高十石及び付属山林諸役免除の公文朱印状を奉納される。朱印状は将軍宣下ごとに書替えられ十五代慶喜将軍まて続けられた。なお、式年御柱祭の新宮造営材は古くより七年毎に木曽山林より出材されたが、尾張藩徳川氏が代々引継ぎ、凡そ七百年にわたって続けられた。
また御柱祭には高遠藩から本郡内十四か村の公役として御柱曳建の人夫五百人の寄進をうけた。そして藩主は代々式年祭にあたって、騎馬一隊を派遣し、参拝の式をあげたという。
明治天皇の御代明治5年(1872年)11月社格が郷社となり、同14年(1881年)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を贈られる。同24年(1891年)宮内省御料局より式年新宮造営の木材を下賜される。同27年(1894年)10月1日明治遥拝殿を創建、明治天皇の生祠明治宮はわが国でもはじめてのものである。明治33年(1900年)県社に昇格御造営材の御下賜は、昭和7年(1932年)まで続き、「天賜材式年造営神社」と称せられるにいたる。
昭和11年(1936年)5月7日巣山沢御料地を御造営材供給の備林として、24町8反17歩(31.822平方メ―トル)の山林御下賜の天恩を辱うした。こうした御仁愛は氏子一同の肝に銘じて千載忘れんとして忘れることのできない所である。
昭和35年2月11日(1960年)矢彦・小野神社の社叢(36.326平方メ―トル)が、「長野県天然記念物」に指定された。古代のままの混交林の姿が現在まで残っており、植物の種類も150種類以上といわれている。
昭和62年8月17日(1987年)拝殿・左右迴廊・神楽殿・勅使殿の5棟が、「県宝」に指定された。(注括弧内の年号は西暦を示す)

−『平成祭データ』−



最終更新日:2014/07/22
【 矢彦神社 (辰野町) 】

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