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酒折宮
さかおりのみや
[山梨旅行] 山梨県甲府市酒折3−1−13  Zenrin Data Com Maps display !!


五七の桐

旧村社

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御祭神
日本武尊

山梨県甲府市にある。
中央本線・酒折駅の西300mほどの酒折に鎮座。
411号線の酒折宮入口交差点から参道が北へ続き、鳥居が立っている。
その鳥居をくぐり参道をさらに進み、中央本線の線路を越えると境内入口がある。

鳥居をくぐると、右手に「酒折宮」「日本武尊御舊跡」と刻まれた社号標。
境内の左手には「新治筑波」で始まる連歌之碑が立っており、
奥には、寛政三年、本居宣長が撰文し平田篤胤の書による「酒折宮壽詞」、
宝暦十二年、山縣大弐が撰文し加藤翼の書による「酒折祠碑」の石碑が建っている。

参道を進むと正面に社殿。
拝殿も、その後方一段高い場所にある本殿も神明造。
拝殿には当社の神紋である「五七の桐」の紋が染められていた。

境内の東に高校があり、高校側(東側)からの参道にも鳥居が立っているが、
その扁額には「八幡宮」とあった。

日本武尊が東夷征討の帰路、当国にお入りになり塩海足尼を召して、
「汝はこの国を開き、益を起こし国民を育てよ、
わが行末はここに鎮座すべし」といわれ、叔母である倭姫から授けられた火打嚢を賜わった。
のち社殿を建立し、その火打嚢を御霊代として奉祀したという。

また、当社は『日本書紀』に以下のように記述されている酒折宮の跡。

蝦夷を平らげられて日高見国からの帰り、常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮においでになった。
灯をともしお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。
新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか(新治筑波過幾夜寝
従者は答えられなかった。御火焚の者が、皇子の歌の後を続けて歌って、
日数を重ねて、夜は九度、昼は十日でございます(計夜九夜日十日)とお答えした。
御火焚の賢いのを誉めて、厚く褒美を与えられた。

この時の歌のやりとりが、複数の作者によって詩を連作する連歌の発祥であるという。

境内の左手は丘。
丘の上にいくつかの石があり、何かの遺蹟かと思って登ってみたが
それらしきものは無かった。


表参道鳥居

東側参道鳥居

境内入口

鳥居

連歌の碑

境内

拝殿

本殿

本居宣長碑
酒折宮壽詞碑

山縣昌貞碑
酒折祠碑

本殿

境内左手の丘

日本武尊御舊跡

酒折宮壽詞碑 碑文表
那麻余美乃此甲斐国之此酒折宮者母与
纏向之日代宮御宇天皇命大御代尓倭男具那倭建男天下之益荒建男神建男登
皇子之隨所選賜氐千引石乃重伎難伎 大命乎重浪之頻蒙斯氐西国能旡禮熊
曽乎言向賜比東国之荒振蝦夷乎和賜氐神登母神登宇都曽美乃世迩無比伎建
伎由々斯伎 大御稜威之天下尓萬代迩天津日登照輝加須 宇豆能大御子倭
男具那倭建神之命之事訖氐大事竟氐蜻蛉嶋倭国尓還坐時衣手能常陸乎過足
柄御坂乎越而御篶刈科野国之御坂神乎多比良宜牟登過理坐流其道之其行宮
登神隨逗坐氐後世迩片歌之続歌之事之始登仰那流新治筑波乃大御歌乎読斯
賜幣流其宮所蹟処登百継十嗣御世者移礼杼千年五百年歳者経奴禮杼余呂志
那倍宮者宇勢世受跡者絶不為今行前母比佐迦多能天津日登天津日嗣登 倭
男具那倭建神命之無比伎建御稜威之大御名登共々迩諸共迩長良閉弖伝理弖
萬代尓常登波尓弥高迩弥広迩照将行栄往牟宮処蹟処
 寛政之三年云歳之正月
伊勢国飯高郡之御民
弟子
平阿曽美宣長畏ニ寿白
平阿曽美篤胤斉利謹書

酒折宮壽詞碑 表文直訳
甲斐の国の酒折宮をことほぐ言葉
なまよみの甲斐の国の此の酒折宮は 大和国城上郡巻何の日代の宮で天下を治 めておられた景行天皇の御代に 倭男具那こと倭建命が天下にすぐれた立派で 雄々しい男 神のように強い気質の男だと 皇子たちの中から選びなさって 大きな 岩を動かすことのような困難な御命令を何度も御下しになって 西国の無礼な 熊曾を従わせなさり 東国の乱暴な蝦夷を平定なさり まことに神のような方と この世に二人といない 勇ましい 神聖恐れ多い尊厳さの 天下にまた後の世まで天 に輝く太陽のように貴い御子 倭男具那こと倭建命が任務を果たされて 大仕 事を終えられて 秋津島大和国に御帰りになる時 衣手の常陸国を過ぎて 足 柄の御坂を越えて みすず刈る信濃国の 御坂の神を平定してやろうと 通貨な さったその道の其の旅の仮の宮と神の御心のままに逗留なさって 後世 片歌に続いて 歌を詠むという事の始めとして尊重される 新治筑波の御製を詠みなさられた その仮宮の場所だ 遺蹟だと 幾代も天皇はかわられ 長い年月は流れたけれど幸 いなことに神社はなくなることはなく 跡は絶えることなく これから先も 天の日と 天皇の位と倭男具那こと倭建命のその類いない尊厳なる御名前と 共々に諸共 にたえることなく伝えられ 万代にいつまでも ますます高く ますます広く輝いて ゆくであろう 栄えてゆくであろう その宮所遺蹟であるこの酒折宮は
寛政三年の正月 伊勢国の飯高郡の民である
平朝臣宣長 恐れながらも 祝詞を申しあげます

酒折宮壽詞碑 碑文裏(酒折宮壽詞碑陰銘)
此之大宮乃前神主飯田正房主者毛己登於耶自 鈴屋字斯之教子尓氐
大人之手豆加良少祁伎紙尓書給比斯此寿詞乎賜波里氐伊加伝石文尓
彫立氐牟登志斯氐波在都礼杼毛容易加良努挙那礼婆其事果佐伝那牟
在祁流乎今度其子正広主其志乎紹氐思立如流乎名取忠貞名取茂樹太
田寛*******************杼云人麻米尓事議
里助祁氐如此那毛厳伎碑尓立流尓就氐此石尓宜波志久己尓書氐登請
遺佐礼多流尓常石尓伝波里行牟此人之有功乎感字牟加斯武余里世
尓著伎己我文乎之拙伎乎毛思波伝如此那牟
 天保火十年伝歳火十一月

右後文
平篤胤識花押
男鉄胤代書

裏文要約
 此の酒折宮の神主である飯田正房 は本居宣長(鈴屋)先生の弟子であり、 酒折宮への寿詞の執筆を先輩門人であ る萩原元克氏(塩山)を通じて依頼し たところ、本居先生自ら寿詞を書いて 戴いたことで、石碑を建てようということ になりましたが、即座に建立することが 出来ずに四十数年が経過しました。し かし、前神主である飯田正房の子、飯 田正広がその意志を継ぎ、名取忠貞 氏等数人と幾度かの協議を重ね事細 かに企画して、ようやく詞碑を建てるこ ととなり、名取氏等の熱意に心打たれ 謹書することを引受けることにしまし た。
 天保火十年伝歳火十一月

右後文
平篤胤識花押
男鉄胤代書



酒折祠碑 原碑文
日本武尊既平東夷還次甲斐國酒折宮此為
其舊址有祠享祀不解者千六百有餘年干今
矣昌貞等不勝景仰之至樹石廟庭謹為之銘
鳴嘑 尊之霊徳千載之下八埏之外靡不被
其化焉若夫底績之著則史籍歴然此不復序
銘曰 維神開國皇擧其綱要荒未服逞其強
梁偉哉 帝子是民之望爰提神剱經營四方
梟師授首蝦夷來王威徳所及莫不披攘ト旋
作詠新墾之章鏗鏘遺響千載流芳允文允武
盛化洋洋緜緜洪趾寰字以康
寶暦十二年壬午夏四月山縣昌貞謹撰
加藤 翼拜書

酒折祠碑 原碑要約
 日本武尊が大和朝廷に従わない東の「えぞ」を平定しての帰途、甲斐の国の酒折宮に暫く滞在 された。ここがその旧跡であり、祠が祀られて既に千六百有余年が過ぎており、誠に恐懼に絶 えず慎み畏みて詩を詠み石碑をこの境内に建てます。  尊の優れた御仁徳は国の隅々まで又遠い将来に迄も及ぼすことは必然であり、その事蹟につ いては史実に示されているので敢えて述べず、尊の功績を讃えた詩文を記します。  神が造られた国を世々天皇が統治ているが、未だ辺境の地には服従していない所があり、偉 大なる皇子日本武尊が輿望を担い、西は九州、東は東北(日高見の国)にと遠征し、その御仁 徳には冒し難いものがあり、西の「くまそ」を討ち、東の「えぞ」を服従させ各地を治め、その帰 途「新治筑波」の歌を詠み連歌の基を作り、立派な光り輝く芳しい名を残し、文武両道に亘りそ の功績は誠に偉大であり、後の世の治政に大きく貢献することでありましょう。

−境内説明文−



最終更新日:2014/05/29
【 酒折宮 (甲府市) 】

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