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阿部野神社
あべのじんじゃ
大阪府大阪市阿倍野区北畠3−7−20
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旧別格官幣社 |
大阪市阿倍野区にある。
南海高野線の岸里玉出駅の東500mほどの北畠に鎮座。
阪堺電軌と南海線が交差する場所で、阪堺電軌・天神ノ森駅が近い。
住んでいる長野から、郷里の山口へ向かう途中、
一日、大阪で過ごすために新大阪に宿泊していたが、
当日は、大型の台風が、近畿地方へ向かっているという休日。
朝から、雨が降っていた。
大阪は、学生時代に過ごしていたので、懐かしい街。
新大阪から、地下鉄御堂筋線で動物園前で下車。
南霞町駅で阪堺電軌に乗り換え、天神ノ森駅で下車。
天神ノ森駅は線路の脇にプラットフォームがあるだけの無人駅。
駅の西に、駅名由来の天満宮が鎮座しており、
境内は、ひっそりとした雨。台風上陸の前という静かな雰囲気。
天神ノ森駅から路地を東へ入り、ウネウネと南へ歩くと、
当社・阿部野神社の西側参道へ出る。
参道を歩き、階段をのぼると、狛犬ではなく、
左右に狛馬。いや、駒馬か。
いや、「幸誘う語らい神馬」と書かれていたので、神馬像なのだろうか。
語り合う神馬像(狛馬) | |
境内への表参道は南側にあるので、
とりあえず、南の入口へ迂回して、参拝を開始。
表参道は住宅地の中を通るので、あまり大きくはないが、
西側の参道の方が、堂々とした構えだ。
鳥居の側には、祭神・北畠顯家公の銅像が立っている。
同じく北畠顯家公を主祭神とする福島の霊山神社にも同じような銅像がある。
参道を進むと、参道の中央には、灯篭や百度石が並び、
その奥に拝殿、後方に本殿がある。
北畠家は、村上天皇を祖とする村上源氏。
祭神・北畠親房公は後醍醐天皇の信任厚く、
「後の三房」と称された人物で、
後醍醐天皇の崩御後 常陸国の小田城で『神皇正統記』を著したという。
祭神・北畠顯家公は、北畠親房公の長子で、
親房公と共に、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて
陸奥国へ下向され、陸奥大介となったが、
延元3年(1338)阿部野の戦いで足利軍に破れ、21歳で没した。
当地は、祭神・北畠顯家公が足利軍と戦った古戦場で、
明治15年、建武中興に尽力した功績により、阿部野神社として創立。
明治23年鎮座祭が斎行され、別格官幣社に列せられた、
建武中興十五社の一社。
神紋は笹竜胆。祭神・北畠家一門の家紋だ。
南側入口の鳥居 | 鳥居脇にある祭神 北畠顯家公像 | 境内の木に祠 |
雨の境内 |
本殿の屋根 | 社殿 |
拝殿の左手(西側)には、北畠家家臣を祀った勲之宮と
当社歴代宮司や関係者を祀った祖霊社がある。
垣の外、西側参道を上がった所には
旗上稲荷社があり、旗上芸能稲荷の小祠なども祀られている。
旗上稲荷社の前には、祭神・北畠親房公をしのぶ詩歌の道(あじさいの道)。
拝殿の左右から、本殿の裏側へ回る道があり、
本殿後方にある奥宮への参道(御魂振之宮)がある。
当社は、昭和の大戦によって焼失したが、
復興開始の時に、仮社殿を祀り、
同時に、御魂振之宮(奥宮)を祀り復興成就の祈願を行った。
その後、復興が無事完了し、奥宮を
「一願一遂の宮」と呼ばれるようになった。
願えば適うお宮なのだ。
奥宮には天照大御神をはじめ、三輪大神、少彦名大神、菅原道真公が祀られており、
神使の白蛇と牛が置かれていた。
西側入口 | 鳥居 | あじさいの道 |
旗上稲荷社 | 祖霊社と勲之宮 |
御魂振之宮(奥宮) | 御魂振之宮(奥宮) |
白蛇 | 伏牛 |
阿部野神社 由緒
御祭神 北畠親房公 北畠顯家公御祭日 一月二十四日 北畠親房公は殊に後醍醐天皇の御親任が厚く 「後の三房」と称された一人である。後醍醐 天皇の吉野御遷幸の後は、吉野朝の中心人物 として伊勢、あるいは常陸において、京都回 復の計画を進められた。後醍醐天皇の崩御後 後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国 の小田城で『神皇正統記』を著した。後、吉 野に帰り、後村上天皇を助け奉り、三后に准 じられたが、正平九年(一三五四)四月十七 日病にて薨じられた。御年六十二歳であった 顯家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三 三三)八月陸奥守に任じられ、同十年義良親 王を奉じて陸奥へ下向され、奥羽は忽ちにそ の威風に靡いた。延元元年、足利尊氏が叛す ると、上洛して九州に敗走させたが、延元三 年(一三三八)京都回復のため再度上洛して 五月二十二日御年二十一歳で戦没された。 現在地は顕家公が足利軍と戦った古戦場で 明治十五年一月阿部野神社と号して創立、同 二十三年三月鎭座祭が斎行され、別格官幣社 に列せられた。現社殿は昭和四十三年に再建 されたものである。 −参道案内板− |