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霊山神社
りょうぜんじんじゃ
福島県伊達市霊山町大石字古屋舘1

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旧別格官幣社 |
福島県霊山町にある。
霊山(825m)の北西麓、大石に鎮座。
当社へのアクセスはあまりない。
福島からバスで、掛田駅まで行って、バスを乗り換える。
掛田駅は、廃駅になった駅で、現在はバス停。
で、掛田駅からのバスは、日曜日には休止になるので、
タクシーに乗るしか方法がない。
参拝日は、その日曜日だったので、
福島から阿武隈急行で、保原駅に降り、
保原駅からタクシーを利用した。
境内は丘の上にあり、麓から車道が続いている。
車道入口の鳥居横に、祭神の像。
車道入口から少し南に、表参道らしき鳥居。
階段を上がると神門の前に到着。
北畠顯家は陸奥大介となり、弟・北畠顯信は陸奥介、
甥の北畠守親は陸奥国司。北畠親房は顯家・顯信の父。
北畠家一門の中で、陸奥に関わる四柱を祀る神社。
北畠家は、村上天皇を祖とする村上源氏。
北畠顯家は、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、
御父・親房と共に多賀城(宮城県多賀城市)に下向。
延元2年(1337)正月8日・国府を霊山に移したが、
翌3年5月、阿部野の戦いで足利軍に破れ、21歳で没した。
明治14年、建武の中興に尽力した功績により、
陸奥国府のあった霊山の地に祀られ、
別格官幣社となった。
神紋は笹竜胆。祭神・北畠家一門の家紋。
参拝を終えて、タクシーを呼ぼうとしたが、
携帯が圏外だった。仕方がないので、麓の公衆電話でタクシーを呼ぶ。
実は、参拝を終えるまで、当社の名前を「れいざん」だと思っていた。
で、電話で「れいざん神社」と言ったが、「はっ? 何処ですか?」と通じない。
何度も、同じやり取りを繰り返した後、
「それは、りょうぜん神社ですよ」と教えられた。
が、地名も「りょうぜんまち」なので、
地元では皆正しく「りょうぜん」と読むのだろうが、
タクシー利用者は、観光で他県から来た人も多いはず。
たとえ、客が「れいざん」「りょうざん」と言ったとしても、
すぐに「りょうぜん神社」のことであると気付くべきではないだろうか。
このタクシー会社の受付は、プロとして失格だ、
などと、ぶつぶつ考えながら、タクシーを待つ。
車道入口 ![]() | 表参道入口 ![]() |
北畠顯家像 ![]() | 車道入口鳥居横の祭神・北畠顯家像 ![]() | 北畠顯家像 ![]() |
参道 |
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神門 ![]() | 神門から境内 ![]() |
境内 |
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本殿 ![]() | 拝殿 ![]() |
福日稲荷社 ![]() | 本殿 ![]() | 祖霊社 ![]() |
霊山神社 御由緒
我国近代化の夜明けといわれる明治維新は「建武 の中興」の理想が根本理念であるとして、御一門の 御徳を仰ぎ宣揚するために神社御創建の気運が官民 双方に醸成され、明治の元勲・岩倉具視をはじめ全 国有志の熱誠を明治天皇の聴許されるところとなり 陸奥国府の置かれていた霊山のこの地が神地として 占定され霊山神社の御創建となった。 −境内案内− 今より六百五十年余の昔、武家の覇権争いにより天下の政治は乱れに乱れ、社会不安が増大し、国民生活は暗雲の下にあった。時の天皇・御醍醐帝は我国本来の美しい社会秩序を回復し、国民の幸福を増進するために天皇御親政を仰せ出された。所謂、「建武の中興」である。 国事の危局に際して、御祭神・北畠御一門は終始大義名分を明徴にされ、我国の真姿顕現と国体の護持に挺身された。顕家卿は御年わずか十六歳にして陸奥介(後に大納言鎮守府大将軍)に任ぜられ、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じ、御父・親房卿と共に多賀城(宮城県多賀城市)に下向、延元二年正月八日・国府を霊山に移して東奥鎮撫の大任に当たり建武の御偉業に大功を樹てられたが翌三年五月、阿部野(大阪)の戦いに於いて足利軍・高師直の軍勢に破れ、二十一歳にして没せられた。弟の顕信卿も鎮守府将軍として凶徒の鎮定に多大の功を樹てられ、その子、守親卿も大納言陸奥国司として親房卿、顕信卿と共に皇統護持のために大いに忠節の誠を尽くされた。 時代が下って明治初期に「明治維新の根本理念は建武中興にあった」として、建武の忠臣を御祭神として奉祀する神社の創建機運が全国的に醸成されるなか、明治九年六月、明治天皇には東北地方御神社巡幸の御砌、半田銀山(伊達郡桑折町)より遥に霊山を望まれ、うやうやしく黙礼されて親王と北畠一門の霊をとむらわせられた。 北畠一門配下の御裔と称して憚らない信夫・伊達郡民を始め東北地方には、天皇の霊山御拝を契機として神社創建、北畠一門奉祀の心意をにわかに昴揚し、明治十二年十二月一日、神社創建を政府に請願、官許を得て直ちに御造営に着手、同十四年五月十一日、御本殿以下各社殿竣成し、四卿の御神霊鎮祭なり靈山神社の創建を見た。明治十八年四月二十二日には特旨を持って別格官幣社に列せられ、昭和二十年大東亜戦争終戦に至る迄、国に於いても厚く奉祀されていた。終戦後は進駐軍による所謂「神道指令」により一宗教法人となり現在に至っているが、しかしながら皇室の御崇敬は愈々厚く忝う致し、遠近の氏子、崇敬者の参拝により社頭の賑いは益々進展している。 −『平成祭データ』− |
