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都都古別神社
つつこわけじんじゃ
福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224

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福島県棚倉町にある。
近津駅の南1kmほど。久慈川に沿った118号線のそばにあり、
茨城方面から北上すると、当社に突き当たって、
118号線は左に少し避けるように曲がって北上。
背後には近津川が流れ、久慈川と近津川の合流地点に鎮座。
南向きの、木々の豊富な境内で、神門を含む垣の中に社殿がある。
垣の東側に広いスペースがあり、奥には境内社が四社あるが、
そこから、東へ向けて灯篭が並んでいる。
社伝によると、日本武尊が東征のおり、
八溝山の夷族の大将と戦い、勝敗がつかず、
そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三神が出現。
味耜高彦根命の鉾を授けた。
日本武尊は、その鉾を、今の鉾立山に立てかけ、
東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を立て、
味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという。
また、日本武尊は東征のおり、1000回戦い1000回勝ったといわれ、
八幡太郎義家は、社号を千勝明神と改め、現在は「ちかつさん」と呼ばれている。
久慈川に沿って、近津と呼ばれる神社が3社存在し、
その鎮座地から、馬場の都都古別神社を上之宮、
当社・八槻の都都古別神社を中之宮、茨城県の近津神社を下之宮とし、
近津三社と呼ばれる場合もある。

明治6年に、馬場の都都古別神社が國幣中社に列せられた時、
当社こそが、式内社であり、奥州一宮で、國幣中社に相応しいとの論争が起こり、
その結果、両社並立という措置によって、当社も明治18年國幣中社となった。
境内右手奥にある境内社は、皇朝工祖神社、熊野神社、金毘羅神社、北野神社。
参道左手には、縁結びの神として夫婦杉が祀られている。
神紋は、丸に引両。
社域 |
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境内入口 ![]() | 参道と神門 ![]() |
狛犬 ![]() | 神門扁額、奥州一宮 ![]() | 狛犬 ![]() |
垣内に社殿 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
皇朝工祖神社、熊野神社 ![]() | 縁結びの神 夫婦杉 ![]() |
都々古別神社要覧
御祭神は味耜高彦根命で日本武尊が配祀されている。味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。 延喜式内神大社で延喜式神名帳に名神大社奥州一宮と称される。日本武尊強夷征伐の時千度戦って千度うち勝ってがいせんされた御神徳をたたえ、その御神威に感動した八幡太郎義家が奥州征伐の時千勝大明神と改められたのもまことに故あることである。 なお引き続き足利時代に白河結城氏並びに水戸佐竹氏より数度寄進あり、以来豊臣秀吉より直筆、石田三成の書あり、佐竹氏より社頭三千貫並びに書類あり。 後、徳川光圀公の尊崇厚く御神宝の奉納あり社殿修復の際には白銀二百枚を寄進された。又、斉昭公は嘉永六年夷狄退散国家安全を祈ったと伝えられる。交通安全・五穀豊穣・家内安全・商売繁昌祈願の参拝者も多く、奥州一宮として広く知られている。 −『平成祭データ』− |
【 都都古別神社 都々古別神社 (八槻) 】
