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都都古別神社
つつこわけじんじゃ
福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39
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福島県棚倉町にある。
磐城棚倉駅の西1kmほど。久慈川に沿った118号線のそばにある。
118号線は、棚倉町で旧道と新道に別れているが、
西側の118号線のそば。
階段を上って鳥居をくぐると境内への参道。
神門奥に、広い境内があり、垣の中に社殿が鎮座。
社伝によると、立鉾山に日本武尊が鉾を建て、
三森に都都古和氣神を祀ったのが創祀。
面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命、大己貴命、味耜高彦根命、
少彦名命、事代主命を合祭した神で。
近津社と呼ばれる理由は、「事勝」のことであると言う。
大同二年に坂上田村麿が伊野荘(棚倉城跡)に奉遷し、
寛永元年(1624)、棚倉城築城のため、当社へ移された。
陸奥国一之宮であり、明治6年に國幣中社に列せられた。
棚倉町には、当社の他に、都都古別神社がもう1社存在する。
また、久慈川に沿って、近津と呼ばれる神社が3社存在し、
その鎮座地から、当社・馬場の都都古別神社を上之宮、
八槻の都都古別神社を中之宮、茨城県の近津神社を下之宮とし、
近津三社と呼ばれる場合もある。
垣の外、境内左手にある境内社は、寅卯神社。
垣の中、社殿の右手には、甲山天満宮、稲荷神社、厳島神社、鹿島神社、神明宮。
神明宮の横に、磐座石がある。
垣の中、社殿左手奥には、熊野神社。
垣の奥に階段があり、その上、ちょうど社殿の後方に奥宮にように
東照宮があり、左手には、事比羅神社と日枝神社が祀られている。
当社は、江戸時代に当地へ遷座されているが、
それ以前に、ここに祀られていた神々が、奥の場所に祀られているのだろうか。
(これは、未確認)
残念ながら、事比羅神社の写真は見当たらない。見逃したのだろうか。
神紋は、珍しい鳳凰紋。
各地の大鳥神社では使用されることが多いのだが、
どうして当社の紋となったのだろう。
境内入口の鳥居 | 神門 |
広い境内 |
鳥居と、垣の中の社殿 | 拝殿 |
拝殿 | 本殿 |
境内右手の神明宮、鹿島社、鹿島社 | 稲荷社、甲山天満宮 |
本殿後方の東照宮 | 神明宮横の磐座 |
境内左手の寅印神社 | 熊野神社 | 日枝神社 |
都都古和氣神社栞
延喜式神祇巻第十神名帳に、陸奥國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」とある御社で、凡そ一千九百余年まえ人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境である事が立証されている。(大場磐雄・亀井正道両博士による。)人皇五十一代平城天皇大同二年(八○七年)坂上田村麻呂は、伊野荘(現棚倉城趾)に奉遷、社殿奉造し日本武尊を相殿に配祀し奉る。寛永元年(一六二四年)丹羽五郎左衛門長重、幕命により棚倉築城に際し、現在の地(馬場)に景勝の替地を奉り、更に社領を添加し旧社殿を解体、移築の上同二年遷宮し奉る。 神位、神階等奉授については、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇・御冷泉天皇等各御宇に行なわれている。造営、神領寄進等は、坂上田村麻呂・源頼義・源義家等をはじめ、足利義満・白河城主・豊臣秀吉等、作事奉行を定め奉造の事が伝えられ、現本殿は、文禄年間(一五九二〜一五九五)秀吉の命により、佐竹義宣の奉造にかかるもので、桃山時代の手法がよく出ている。 中世、天災や兵火によって社殿焼亡又は大破した事もあるが、その時毎に、直ちに造営せられている。 当神社は、平安中期から久慈川、社川、阿武隈川流域の人々の絶大なる信仰の対象であった。北郷二十四ヶ村に亘った神領地も其の一証である。 徳川幕府は、代々先規により神領朱印状を奉っていた。 明治四年太政官達し、同六年三月七日、国幣中社に列格。 −『平成祭データ』− |