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多賀神社
たがじんじゃ
宮城県多賀城市高崎1−41−1

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式内社 陸奥國宮城郡 多賀神社 |
宮城県多賀城市にある。
JR多賀城駅から多賀城跡へ向う道の中間地点、
高崎で、左の小道へ入ると、多賀城跡附寺跡がある。
その側に鎮座している。
多賀城跡附寺跡は、綺麗に整備された公園で
特別史跡になっている。
多賀城跡附寺というのは、多賀城に附属していた寺、
多賀城鎮護寺だと思われる。
当・多賀神社は、多賀城主が近江・多賀神社を勧請したもの。
多賀城跡附寺を含めて境内も特別史跡に指定されている。
式内社・多賀神社の論社。
中古、鹽竈神社に合祀されていたとも伝えられている。
公園周囲の道路脇のオープンな場所に鳥居と参道、
そして社殿がポツンとある。
多賀城跡附寺跡の紅葉が綺麗だった。
多賀城跡附寺跡 |
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鳥居と社殿 ![]() | 鳥居と多賀城跡附寺跡 ![]() |
社殿 |
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多賀城跡附寺跡の紅葉 |
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鎮座の年月は明らかでないが、この地は古くか
ら多賀城の附寺の境内であり、『封内風土記』によれば古昔
多賀城主が江州の多賀神社を勧請して造つたとしてゐる。
恐らく延喜以前から國司・開拓移住民が常に尊崇してゐた
であらうと思はれる。延喜の制小社に列せられた。日本後
紀に桓武天皇延暦十五年十月己卯多賀神に従五位下を授け
奉るとある。『朝野群載』に「堀河天皇康和五年六月十日
奏龜ト御體ト(中略)坐陸奥國多加神云々。社司等依過穢神
事崇給、遣使科中祓、可令祓清奉仕事宮主従五位下行少祐
卜部宿禰兼良、中臣従五位上行権少副大中臣輔清」とあり、
當時朝野の尊崇を受けたことが明らかである。明治五年村
社に列せられる。昭和四十年境内一圓國の特別史跡に指定
され、數年にわたり發掘調査が進められ、又史跡公園になつ
たので、多賀城廃寺跡東塔基壇上に鎮座した神殿その他の
施設を隣接の地に境内地を求め移築して神霊を安鎮した。
明治四十一年十月、大字留ケ谷字中道の神明社、同四十四
年五月大字東田中字志引の千引神社、大宇留ケ谷字影屋敷
の天神社を合祀した。
−『式内社調査報告』− |
【 多賀神社 (多賀城跡附寺跡) 】
