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荒雄川神社
あらおがわじんじゃ
宮城県大崎市鳴子温泉鬼首字久瀬3
久しくもわが飼ふ駒の老い行くを、惜しむは人に代はらざれけり
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式内社 陸奥國玉造郡 荒雄河神社 |
宮城県大崎市にある。
陸羽東線・鳴子温泉駅から北西に13Kmほどの鬼首に鎮座。
荒雄湖横の108号線を北上し、
荒雄川(江合川)を渡る手前で63号線に入り、
リゾートパークオニコウベ方面へ向うと、
道の途中に赤い鳥居が立っている。
当社の鳥居が、花渕山(985m)登山道(小向コース)の入口らしい。
参道を進むと階段上に、神門のような建物。
割拝殿にも見えるが、拝殿は別にある。
広い境内に、赤い屋根の社殿が数棟。
中央に当社の拝殿があり、後方に神明造の本殿。
あるいは、この中に本当の本殿があるのかも。
創祀年代は不詳。
社伝によると、
往古、荒雄川の水源である荒雄岳(984m)の
山頂に鎮座していたが、明治五年に現在地に遷座。
山上より少し下ったところに霊石(大物忌石)があり
岳宮として祀られていたらしく、
当社は里宮にあたるようだ。
大物忌神は、鳥海山山頂と荒雄岳山頂に祀られる神。
共に、朝廷より幣帛の奉進があった古社。
式内社・荒雄河神社の論社の一つだが、
岩出山の論社も、荒雄岳山頂の岳宮に対する里宮であり、
結局、山頂に岳宮が式内社であるということになる。
荒雄岳里宮は、荒雄川流域三十六ケ所にあったところから、
里宮を、三十六所明神、三十六社様とも呼ぶ。
また、荒雄河神社は玉造郡の式内社だが
当地は、玉造郡から栗原郡へ変わった地であり、
当社を栗原郡の式内社・遠流志別石神社とする説もあるとか。
明治になって、字小向八幡神社、字三杉御岳神社、
字田野山神社、字単澤愛宕神社を合祀。
当社境内に、主馬神社という境内社がある。
祭神は、金華山号。明治天皇が乗られた名馬らしい。
社殿内に、木像の金華山号が安置されている。
境内社は、拝殿の左手に雷神社(大雷神)、
右手に八幡神社(誉田別命)がある。
鳥居と参道 |
参道階段上の神門(割拝殿?) | 境内から |
境内 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
雷神社 | 八幡神社 |
主馬神社 |
金華山号木像 |
当社は、玉造郡鳴子町に鎮座しており、本殿に大物忌命、素戔嗚命、誉田別命、軻遇突智命、大山祇神、日本武尊、境内に金華山号、誉田別命、大雷神をお祀りしている。 勧請年月不明。往古ヨリ荒雄川ノ水源荒雄嶽ニ鎮座アリシヲ、明治五年此ノ地ニ移祀ス。当社ハ延喜式内ノ神社ニシテ玉造郡三座ノ其ノ一也。 此ノ地往古玉造郡ナリシヲ何時ノ頃ヨリカ栗原郡ニ属セシヲ以、遂ニ此社ヲ式内ト称スルコトナク、却テ池月村上宮ノ地ナル、荒雄川神社ヲ以式内ノ社ト称スルニ至ル。古ヘ、丹取郡ヲ玉造ト改メラレタルハ、本村神室ケ嶽ヨリ出ル白石英ヲモテ玉ヲ造リ、貢奉リシヨリノコトニシアレハ、此地ノ玉造郡ナルコト明白ナリトシベシ。太平記ニ鬼切部ノ合戦破テ、栗原ヘ走ルトミユ。コレ当時、玉造郡ニ属セシヲ知ニ足ル。サテ旧社ノ傍ラニ大小ノニ沼アリ。少シ下リテ大物忌石ト称スルモノアリ。高サ六尺四寸周囲六尺八寸。又巳牛ノ方ニ当リ両石並立テリ。之ヲ雄石雌石ト称ス。此ノ石下ヨリ涌出スル水乃荒雄川ノ源水ナリ。明治八年五月村社ニ列ス。大正十年二月一五日神饌弊帛料供進指定セラル。 放送案内装置にて説明、荒雄川神社・金華山号案内。 本日はようこそ御参拝下さいました。 只今より、荒雄川神社・金華山号についてご説明を申し上げます。 右手の社が荒雄川神社と申しまして、御祭神は大物忌神ほか五柱をお祀りしてあります。荒雄川の水源を司る神として、穀倉地帯大崎地方一円の人々の水神様として、又、五穀豊穣の神として信仰され、氏子崇敬者からは諸願成就・当病平癒・家内安全・商売繁盛・地域産業隆盛の神として崇め奉られております。 荒雄川流域には三十六ヶ所に神社が奉られており、一名三十六社様とも云われております。荒雄川神社は、延喜式内社で凡そ一一〇〇年前に編さんされた、延喜式神明帳に玉造の郡三座の一社として登載されております。 次に明治天皇の御料馬金華山号についてご説明を致します。 金華山号は明治二年四月宮城県玉造郡鬼首村(現在の鳴子町)に生まれました。 幼名を起漲と云い、毛色は栗毛で体高は一メ−トル四八センチ、耳からヒズメまでが二メ−トル一三センチ、前足より尾の先までが二メ−トル五五センチのオス馬です。 明治九年奥羽地方御巡幸の際天皇様のお目にとまり、七才の時に御料馬となり名前も金華山号と改められました。 主馬神社に祀られております、金華山号は明治三四年、村社荒雄川神社社掌、高橋盛喜氏の依頼により当時、馬の彫刻で日本一と云われ、帝室技芸院の会員で初代後藤貞行氏の製作による等身大の木製の彫刻です。 皇居前の楠正成の銅像も馬の部分は同氏の作品です。 明治三四年東北特別大演習の時、仙台階行社で、天覧に供され後に故郷鬼首、荒雄川神社境内に主馬神社が建立され、金華山号が祀られました。 金華山号がいかに優れた馬であるか、次の事によって伺い知ることが出来ます。 明治二一年埼玉県にて、近衛秋期機動演習天覧の時、砲声とどろく中にあって供奉の馬は皆驚き逃げ出すありさま、独り金華山号は泰然として、何事も無げに歩いた。 又、にわかに雷鳴となり橋梁溢れて板橋浮きあがらんとしたので、多くの馬は進むことが出来なかったが、金華山号だけは橋の安全を前脚で確かめつつ、静々と渡り過ぎた。 よく調教された金華山号とはいえ、陛下がお乗りになるときは前脚をひざまつき、体を低くされたり、ご観閲あらせられし折り、急に大雨に逢い足元の土が流失しようとも三本足にて体を支え、少しも動く事がなかった。 銃声とどろく演習や、険難の地に臨んでも、進退の度を失うような事なく沈着にして鋭敏で良く御料馬としての大任をはたした。 馬齡を加えること二七才、明治一三年より一六年間に公の儀式一三〇回の多きにお仕えしました。 明治天皇御製、久しくもわが飼う駒の老い行くを、惜しむは人にかわらざれけれ、鞭うつもいたましきまで早くより、ならしし駒の老いにけるかな。 藤波主馬頭、大君の玉のみくらにかざられて、人にもまさる馬はありけり。 明治二八年六月老衰のため二七才で死去。 明治天皇は、金華山号を特に可愛がられ、死後お言葉によって骨格は組み立てられ、毛皮は剥製にされお側近く(宮内庁主馬寮)に安置し労をねぎらわれ、その霊を慰められました。 現在は明治神宮外苑にあります、聖徳記念絵画館に安置保存されております。 金華山号出生の地に等身大木像を主馬神社に奉祀し、産馬の隆盛と畜産の振興を祈られました。 −『平成祭データ』(原文ママ)− |