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船魂神社
ふなだまじんじゃ
北海道函館市元町7−2
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北海道函館市にある。函館山の北東麓。
函館山からの傾斜が続き、函館港へ下る多くの坂がある
観光地・元町に鎮座。
高校の横にある小道の坂道を登ると、
参道に鳥居が立ち、階段を登って境内。
参道右手にある手水社の横に、横たわる岩から
ひょっこりと飛び出した岩がある。
これが、義経伝説の残る童子岩だ。
社殿はコンクリートでできているようだ。
元町には明治時代の洋館や教会が多いが、そんなイメージ。
白い壁に濃いエンジ色の屋根の配色も面白い。
社殿の左手には、「護北神社」と書かれた石碑。
右手には、境内社が並ぶ。
境内社には、弥彦神社(天香語山命)、出雲神社(大國主命)。
永福稲荷大神、函館稲荷大明神など。
傍らに、「函館山七福神・福禄寿」と書かれた祠もあった。
「函館山七福神」の他の六神はどこにいるのだろう。
興味のある人は探してみるのも面白いだろう。
社伝によれば、崇徳天皇保延元年(1135年)に、
高僧・良忍によって建てられた観音堂が当社のはじめ。
一説には北海道最古の神社と云われているらしい。
義経伝説もあるという神社だ。
義経が津軽から蝦夷の地へ渡る途中、
遭難しそうになったところを船魂明神の加護により
無事、函館に到着。
その後、水を探していると、童子神が現れ、
指さす場所に、清水が湧き出したという。
後に、御宣託の泉と云われたが、誤って「洗濯水」とも呼ばれた。
神紋は三つ巴紋。
参拝は11月のはじめ、連休の初日。
元町は多くの観光客が歩き回っていた。
ほとんどが洋館や教会が目的らしく、
ここまで来る人は少ないのかもしれない。
「ここまで」といっても、元町の通りから100mほど山側にあるだけ。
人の多い通りや坂道よりも、もっと上から港を見下ろす
このロケーションはちょっと得した気分になれる。
参道入口の鳥居 | 社殿 |
境内 |
本殿 | 拝殿 | 良忍上人巡錫之跡 |
弥彦神社・出雲神社、稲荷社 | 函館山七福神・福禄寿 |
手水舎脇の童子岩 | 社殿左の護北神社の碑 |
境内から函館港を見下ろす |
船魂神社
融通念仏宗を広めるため良忍という高僧がこの地に来て「ここは観音菩薩の霊跡
である。」といい、保延元年(1135年)観音堂を建てたのがこの神社の始まりとされ、
北海道最古ともいわれているが明らかではない。また、源義経が津軽から渡航したとき、遭難しそうになったところを船魂明神の 加護で無事上陸したなどの伝説もあるが、もともとは観音菩薩を祭る観音堂と呼ば れていたらしい。 江戸時代末期に船魂大明神と称し、明治12(1879年)に村社になり、船魂神社 と改称した。 明治25年(1892年)に改築された社殿は、同40年(1907年)の大化で焼失した後 一時、谷地頭町の函館八幡宮に神体を移していたが、昭和7年(1932年)この地に 本殿を築いた。現在の建物は、同37年に改築した。 −社頭案内板− 義経伝説、童子岩
蝦夷実地検考録によれば、
文治の末(一一九〇)義経
津軽より渡り来る洋中に、
逆波起り船まさに沈もうと
した時、船魂明神の奇せき
有り、つつがなく岸に着き
此のあたりを、歩いている時、
にわかに、咽が渇き水を
探していると童子神が、
忽然と岩上に現れ、指さす方
をみれば、清水こんこんと
湧出ていた。後世、御宣託の泉と言伝えた。 −境内案内板− 船魂神社
社伝によると崇徳天皇の時代保延元年(1135年)この処一帯は霊験あらたかなところとして、社を創立して凡波荒い津軽の海路を渡り、蝦夷地(北海道)にたどり着いた人達が海上安全を祈る神社であった。 北海道最古の神社で延享4年(1747年)松前町福山あの白鳥頭梁社殿修築する。明治12年(1878年)村社になる。 相殿愛宕神社合祀 箱館城主、河野加賀守が愛宕山に社地五五間四方を有する無火神社を創立。しかし明治になって奉行が離函し不敬になりそれを憂いた氏子の人達が明治13年9月に船魂神社に合祀した。 −『平成祭データ』− |