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湯殿山神社
ゆどのさんじんじゃ
山形県西村山郡西川町大字本道寺字大黒森381
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山形県西川町にある。
月山の南麓、月山湖の東の本道寺に鎮座。
112号線の北側に境内がある。
道路に面した階段を上ると、大きな社殿。
拝殿の後方に、流れ造の本殿。
参拝は八月の雨の日。月山登拝を目的にやって来たが、
雨で断念し、下山して周囲を車で巡って当社へ。
周囲は、鬱蒼とした森。
下山した頃には、雨は止んでいたが、
緑が瑞々しくて、マイナスイオン充満。
深呼吸したくなる境内だった。
当社は、湯殿山神社の口之宮。
社伝によると、大同四年(809)空海が湯殿山登拝の折、
雲霧の中に光る老木があった。
空海は、この老木から大日如来・大黒天の尊像を造り、
草庵に安置した。その草庵を、月光山光明院と号したという。
空海は、従僧に対し、
「此処、亦湯殿山大権現に通ずる本道とならん。
汝我身に代り此処を守り、湯殿山御宝前への日月の代参の行を修すべし。
大権現の霊験世に現われん」と訓して旅立たれたという。
その後、天長年間(824〜833)、
湯殿山の分霊を勧請して伽藍を造営し、月光山本道寺と改称。
後、寒河江城主大江氏、山形城主最上氏の崇敬を受けたが、
維新の際に兵火により消失。
明治五年(1827)、寺号を廃して
湯殿山神社となった。
神仏習合の名残で、拝殿には佛足石が置かれていた。
境内には地蔵尊なども祀られている。
道路脇の案内 | 参道入口 | 参道 |
境内社殿 |
十二面山神・地蔵尊 | 本殿 | 拝殿 |
佛足石 |
境内に並ぶ石碑 |
平城天皇大同四年旧四月八日僧空海梵字川を登りて湯殿山(旧国幣社湯殿山神社)を開基し御宝前において修法中、見上ぐる峰に月光に似た光を認め、奇瑞を感じ、それを慕いて断崖(現在御月光という)を登られ、更に東の方の幽谷(現在石跳川という)そして川を下ると、その光源は或森の中腹から発しており、森の中に分け入ると、老木から発していたという。大師従僧と共に草庵を結び月光山光明院と、その森を大黒森と名付け、その老木を以て大日如来の尊像を刻して本尊となし、更に大黒天尊像を刻して前仏となして修法され、従僧に対し「此処、亦湯殿山大権現に通ずる本道とならん。汝我身に代り此処を守り、湯殿山御宝前への日月の代参の行を修すべし。大権現の霊験世に現われん」と訓して杖を分ち旅立たれたという。此の日が十二月八日であり、爾来此の日を以て湯殿山御年越という。(口伝及び朝日村誌、日本霊山記、本道寺世代記)淳和天皇天長三年四月湯殿山の分霊を勧請して社殿創建、湯殿山大権現と唱え、同時一寺を建て光明院を本道寺と改号し別当と為す。以来湯殿山を奥の院と唱う。 鳥羽天皇保安四年僧空山諸国を勧化して隆盛を極め、大堂伽藍を建立し、塔中六ケ寺及び四十八坊を支配し、不動の基盤を造り、豊土寺の称号あり。後代この空山を中興の祖と仰ぐ。(湯殿山江戸出開帳記、神社明細帳、西村山郡神社誌) 武将等の信仰 後冷泉天皇康平四年源頼義当寺において朝敵征討を祈願し源義家修理を加え、六石五斗寄附される。(山形県神社明細帳、西村山郡神社誌)御鳥羽天皇文治三年藤原秀衡の奥方当寺を経て月山に登られ、金仏三十六体を建つ(堀伝蔵氏大井沢文書)四条天皇文暦元年寒河江城主大江氏より六石五斗の土地寄進、御陽成天皇慶長二年山形城主最上家より十一石の土地寄進、以下徳川時代に入り、慶安二年大猷院(徳川家光)より燈明料として社領六石五斗の地を朱印を以て附す。寛文三年大日堂建立、貞享三年湯殿山頼願寺となる。(前掲大井沢文書、本道寺世代記)宝永二年大師堂建立、仙台白石領主片倉小十郎直筆の開山堂の額寄進。 宝永四年相州小田原城主大久保加賀守奥方より伽藍大日尊奉納、常州土浦城主土屋相模守より狩野洞春筆、釈迦、文殊、普賢三幅対掛軸奉納、同家家司早川源左エ門、同源太夫より五大堂名具寄進あり。正徳四年仙台城主伊達吉村より直筆の大日尊大掛軸奉納、元文四年徳川幕府より仁風一覧寄進、湯殿山は徳川家七祈願所の一となり当寺は湯殿山四ケ寺(当本道寺、大井沢の大日寺、大綱の大日坊、七五三掛の注蓮寺)の代表として七年毎に上府、営内にて席次を賜わり祈祷奉修し御礼献上する慣例となる。(本道寺世代記)宝暦九年、当寺本尊大日如来、江戸本所回向院にて三月一日より六十日間出開帳、大奥より竹姫御参拝御紋章付水引御寄進さる。文政七年仏足石造顕、弘化二年総法務宮より湯殿山の額を賜わる。斯様に徳川幕府を始め諸大小名の信仰篤く、特に庶民の信仰は殊に篤く関東以北津々浦々片田舎の小集落に至るまで無数に建立された供養碑がその信仰の深さを今に物語っている。然るに斯る幕府の信仰、庇護が災いしてか、戊申の役に官軍の手によって慶長五年建立の桁間六十三間、梁間十八間半の大伽藍及脇院六坊悉く焼払われ、更に由来神仏混合の霊場に神仏分離令の施行に伴ない時流の波に抗し難く、奥の院湯殿山が明治七年国幣社に祀替えになるに及んで当本道寺も還俗し、口宮湯殿山神社となったのである。明治九年初代県令三島通庸が県庁守護神として、当湯殿山神社の御分霊を奉斎して、山形市旅篭町に県社湯殿山神社を建立し、祠官は、当神社祠官高玉篤義をして兼掌せしめたのである。 往古より培われた権現様本坊への庶民の信仰は、社殿再建の挙に結集され、その浄財によって明治十五年再建に着手、同二十二年再建され今日に至っている。この間、曾って徳川時代において、湯殿山支配をめぐり、寛永、寛文、寛政の三回に亘り羽黒山より公訴が出され、その都度湯殿山四ケ寺が勝訴し、湯殿山は、湯殿山四ケ寺が護るべきものとされていたのが、明治維新において官軍の兵火により当寺が焼かれ、神仏分離令において四ケ寺の不統一を来たし、当事者の時局洞察力の欠如と精神的錯乱などが重なり、その主導権を失ない、諸事圧迫を受け更に交通の発達に伴って衰微の一途を辿ったのである。時として寛文の両造法論を排し開山の根義と歴史観の正視を回避し、糊塗せんとする向もあるが、衆生済度の教義と信仰及び湯殿行法は、庶民と共に生き継がれた長き伝統は、神苑に林立する樹齢四百年の老杉が、数多い宗教文化を物語っており、昭和四十五年には三級社に認定され、新国道一一二号線の開通と共に、参拝者の著増を見、昭和四十九年には、信仰者各位その他の浄財をもって斎館が落成し、今後更に社殿の修復、神苑の整備を計り、神徳宣揚に一段の拍車を掛けようとしている。 −『平成祭データ』− 西川町指定文化財 第八号
佛足石の信仰は、遠く奈良時代に始まります。佛 足 石 こゝの湯殿山神社は、月光山本道寺と申しま して、湯殿山の別当寺として栄えました。その ために、佛教関係の遺品があるのです。 この佛足石は、大蔵経第七七号のうち「千輻輪相 顕密集」にある図像が転拠となっています。この 図様は他に類例がなく本邦唯一とも言える佛足 石であります。 建立社宥勝は、文化一四年から文政一二年ま で一三年間本道寺三三世住職として、寺の発展 に寄与し、また俳号を淋山と号し地方俳壇を指 導した高僧であります。 −境内案内− |
【 湯殿山神社 (本道寺口之宮) 】