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須岐神社
すきじんじゃ
宮城県黒川郡大衡村駒場字宮前4
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式内社 陸奥國黒川郡 須伎神社 |
宮城県大衡町にある。
仙台方面から4号線を北上し、
大衡町の河原交差点から東へ、3Kmほど。
道路脇に南面して境内がある。
創祀年代・由緒等は不明。
近世までは赤崎大明神と稱していた。
『赤崎大明神縁起」では、古社名を「韓鋤神社」とあり、
祭神を「鋤の神」とする説もある。
鎮座地の駒場は、源頼朝の奥州征伐のおり、当地で馬を休めたことによる。
昔の写真では拝殿は萱葺き。案内板にもそうあったが、
現在は新しく改築され、洒落た造りとなっている。
当社からそれほど遠くない富谷に行神社が鎮座している。
当社を「スキ」とし、行神社を「ユキ」と読み、
「ユキ」と「スキ」の組み合わせて考える説もある。
天皇の即位の際に執り行われる大嘗祭では、
悠紀(ユキ)殿と主基(スキ)殿が設営され、
京都以東以南の悠紀地方と、以西以北の主基地方の
両地方の斎田でとれた新穀を献上する。
ちなみに、行神社は南に、須岐神社は北にある。
本殿は覆屋に覆われていたが、
脇の扉に、「ご自由にお入りください」とあったので、中に入ってみた。
が、内部は真っ黒で何も見えず、しかも、内部本殿が大きく、
近すぎて、撮影がうまく出来なかった。
境内入口 |
神門 | 社殿 |
社殿 |
拝殿扁額 | 覆屋 | 内部の本殿 |
須岐神社の由来
当社は延喜式神名帳記載の黒川郡四社の
一社で祭神素盞嗚尊を祀る。始め西方の宮高
森上に在り建久二年(一一〇九)に地頭児玉
弥太郎がここに遷座して、赤崎大明神と稱え
椚千本を植え神境とした。里人はこれを
千本椚と稱した。中世時代から支配領主たちの
崇敬篤く延享三年(一七四六)藩主伊達宗村
公は疾病平癒祈願のため茂庭求馬社参したと
いわれ終始一貫して地方の名社として存続し
明治六年郷社となる。社殿は江戸時代中期宝暦十年(一七六〇) に神主斎藤能登守の時に新築造営された。 本殿は流れ造りこけら葺きで小屋組柱露出吹 放の覆屋(雨屋)がかけられている。 拝殿は入母屋造萱葺、長床は寄棟造萱葺で 大正十三年に再建された。 −社前の案内板より− |
【 須岐神社 (大衡村) 】