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二俣神社
ふたまたじんじゃ
福島県いわき市小川町下小川字梅ノ作53
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式内社 陸奥國磐城郡 二俣神社 |
福島県いわき市にある。
いわき駅の北6.5Kmほどの小川町下小川に鎮座。
磐城街道(399号線)を北上し、夏井川を越え、さらに北上。
常磐自動車道を越えて、100mほどで西へ入った場所。
車道から境内の横に入る事が出来るが、境内入口は西側。
地図には「小川江筋」とある用水路のような小川に神橋。
橋を渡り、階段を上ると鳥居が立っている。
鳥居をくぐり、木々の茂った荘厳な参道を進むと
正面に広くて明るい境内。
境内入口の右手に舞殿があり、左手に手水舎。
境内奥(東側)に、西向きの社殿がある。
拝殿は銅板葺入母屋造。背後の本殿は流造。
参拝は天気の良い6月の午後。
砂地の境内は、日射しの強い日はコントラストが強い。
参道の左右に広がる林は古社の趣があり、
何かが潜んでいそうな雰囲気だ。
通称は二俣八幡宮。
創祀年代は不詳だが、
社伝によると貞観二年の勧請。
ただし、貞観二年は山城国石清水八幡宮の勧請年なので、
旧来の二俣神社に、のちに八幡神が勧請された時、
石清水八幡宮の勧請年を伝えたものかもしれない。
もとは二俣川(夏井川)左岸に鎮座し、川上八幡宮と称していたが
たびたびの水害のため、天和二年九月、
領主内藤左京太夫義泰によって現在地に遷座。
旧社地は、現在地の北西1Kmほどの広畑のあたりで、
『磐城郡村誌』によると、鳥居基礎が残っているらしい。
中世には一度廃絶しており、領主内藤義概の時に
探索・考証を経て、京都吉田家の許可を得て
式内社・二俣神社に比定されたようだ。
あるいは、天和の頃、二森明神と呼ばれていた当社が
式内社・二俣神社に比定されたとの伝承もある。
別当は来泉寺。熊野参詣の先達だったようで修験者の寺。
当社も修験道に関連のある神社で、
一説には、二ツ箭山を神体山とし、
小川町上小川字植ノ内の二屋神社を二ツ箭山の拝殿、
当社を里宮とする伝承もあるらしい。
祭神は、八幡神である品陀和氣命。
ただし、八幡神は後の勧請と考えられており
本来の祭神は、二俣の社号から、
岐神や八衢比古、八衢比賣とも考えられている。
明治六年郷社に列格した。
『全国神社名鑑』には、末社五社と記されているが
参拝時には、社殿左手の一社しか確認していない。
『平成祭データ』『明治神社誌料』には、
境内社として青麻神社(大己貴命 少彦名命)の名があるが、
この境内社のことだろうか。
拝殿の屋根に三つ巴紋が付いていた。三つ巴紋は、
特に神紋でなくても一般的に神社社殿に見られる紋なので
当社の神紋かどうかは不明だが、八幡系神社なので
三つ巴紋が神紋であっても不自然ではない。
ちなみに『全国神社名鑑』には、神紋は記されていない。
参道入口と神橋と小川 |
参道入口の神橋 | 参道の鳥居 |
参道 | 参道 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
青麻神社か | 扁額 |
境内 |
由緒
−境内案内板− 当社は祭神品陀和気命を祀り、勧請は貞観2年、延喜式内社の二俣神社と称す。 正應2年、小川入道源義綱公再建、田反別4町8反歩寄進除地。 天和2年9月12日水災の為、領主内藤左京太夫義泰公、二俣岡に遷座。社地1町4反4畝余りを旧地の代地として寄進、除地として社殿造営。 元禄11年内藤能登守義孝公、社領社殿を修補。その後の領主代々社殿造営修補。御供米1石2斗、祈祷料として金7両宛毎年領主より賜る。明治一新前迄奉献。 明治に至り社格郷社に列せられ、延喜式内郷社二俣神社と称す。 今時戦後昭和22年、郷社の称号を廃し宗教法人二俣神社と称す。 −『平成祭データ』− |