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六所神社
ろくしょじんじゃ
山形県鶴岡市上藤島字六所畑62

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出羽國総社 |
山形県鶴岡市(旧藤島町)にある。
藤島駅の南300mほどの上藤島に鎮座。
境内のそばに藤島川が南北に流れている場所。
境内入口は南側。
間口の広い境内で、垣などに囲まれていないが、
木々が多く、緑の境内。
入口の鳥居の左には、妙に気になる木。
注連縄で祀られていないので、御神木かどうかは不明。
芝の境内中央に参道があり、二本の木の間を歩くと、
正面に社殿。
社殿の屋根の上が、物見櫓のように飛び出した建築。
といっても窓があるわけではなく、
神紋らしき三つ巴の彫刻が付けられている。
現代の建物なら、時計などを設置するだろうと思われる形式。
この様式をなんと呼ぶかは知らないが、面白い。
社殿そのものは、あまり古い印象ではないが、
昔からの伝統の様式なのかもしれない。
桓武天皇の御代、延暦十三年(794)の創祀。
社伝によると、出羽国総社として国司奉幣の古社である。
藤島町は、和銅元年、出羽郡出羽国が置かれた地。
古くは、渡前の元六所(信心河原)に鎮座していたが、
洪水によって流され、現在地に留まったという。
満山満願寺六所大権現と称されていたが、
明治初年に六所神社と改称した。
『日本「神社」総覧』には、出羽国総社として
藤島町(現鶴岡市)三和の六所神社が記載されているが、
該当する神社に参拝した感じは、総社の雰囲気ではなかった。
もちろん、現在寂れているからといって、
古代から、そうだったと決め付けるのは良くないが、
違和感を感じていた。
その後、『平成祭データ』記載の当社由緒に
出羽国総社という文字を発見し、参拝してみた。
印象で語ると、やはりこちらが総社だと思う。
『日本「神社」総覧』の記述ミス(住所間違い)だろう。
旧藤島町には、六所神社が三社存在するので、
間違ったのかもしれない。
境内の右手には、境内社・稲荷神社の赤い社殿。
境内の左手に、言われなければ気づかないような低い塚がある。
そのそばに「伝、一品守永親王御陵花山院」と書かれた標が立っている。
守永親王とは、後醍醐天皇の孫(尊良新王の御子)。
当社の近く、藤島川の東側に、藤島城跡があるが、
藤島城は、南朝側の拠点であり、
鎮守府将軍北畠顕信が守永親王を報じて旗揚げした城。
社頭 |
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鳥居横の木 ![]() | 鳥居 ![]() | 社号標 ![]() |
境内 |
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社殿 |
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社殿 ![]() | 社殿 ![]() |
伝、守永親王御陵 ![]() | 稲荷社 ![]() |
上藤島 六所神社由緒
延暦十三年創立明治九年二月郷社列格、旧神饌幣帛科共進指定神社明治四十年四月十一日列格。古記に依れば人皇五十代桓武天皇の御宇延暦十三年勧せい延十七年五月御宮出来七月十八日御遷宮の故七月十八日は二月二日の神事を行なうとある。 住古出羽郡府あった頃は国土経営の神国常立尊 伊弉諾尊 伊弉册尊 素戔鳴尊 大己貴神 事代主神の六柱を奉斎したが後に出羽国延喜式内社大物忌大神外五柱を合祭し出羽国鎮護の国府総社として国司奉幣の神社となった。 古来藤島城主、庄内領主を始め諸将の崇敬された社で建久年間源頼朝公天下太平祈願のため金の扇子を奉納された。 建仁三年亥八月社殿再建(旧記)慶長十七年六月四日少将出羽守義光公社領七石六斗四升の黒印あり。 尚太閤秀吉公より社領として朱印の寄進あった。 建武中興時代の初め頃平形館主九鬼長門守が獅子頭を直作して奉納された。 獅子頭の神事の起源は不詳であるが、慶長六年最上義光の将、新関因幡守久正が藤島城主に任せられ鶴岡城代を兼ねられたが其の頃獅子頭庭舞の為登城したので、その因縁で爾来引き続き旧中川郷七十一個村に渉り恒例の神事として廻村庭舞として各村中各戸の家内安全の祈祷を致して居る。 正平年中南朝の北畠顕信郷藤島城で義兵を挙げ当神社を祈願所とされた。 当時奉じられた一品守永親王の御陵花山院と称して社畔に現存してある。 享保十三年戈申十月社殿造替のとき藩主酒井公より後田林の大松木十本奉納された、天保四年の飢饉に際し藩の代官所より祈祷被申付翌年大豊作の為め返礼として燈石二基奉納され中川郷七十一個村よりは大幟二流献納された。天保十一年藩主酒井忠器公越後に御国替の沙汰があった際、中川郷は勿論川南即ち最上川南部東西田川の総百姓幾万となく群集し当社で永城祈願と協議を開かれた。後に藩主酒井忠器公直筆「六所神社」の扁額奉納された。時に嘉永二年七月十六日である。 昭和二十二年一月二十一日宗教法人令に依る神社設立の登記済昭和二十四年五月三十日指令第一九一六号を以て国有境内地譲与許可された。 −『平成祭データ』− |
