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後醍醐天皇 |
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後醍醐天皇
ごだいごてんのう
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ごだいごてんのう
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- 第九十六代天皇。第九十一代・後宇多天皇の第二皇子。
- 後醍醐天皇は天皇専制の復古を目論み、 1331年、笠置で挙兵(元弘の乱)したが捕らえられ 隠岐に流された。
- 1333年、護良親王・楠正成の軍事行動に呼応し隠岐を脱出。
名和長年に擁けられ伯耆国船上山から朝敵滅亡の宣旨を発した。
これに呼応して、新田義貞、足利尊氏ら各地の武士・悪党らがいっせいに討幕の軍を起し鎌倉幕府は滅んだ。
- 1334年、元号を「建武」と改め、武家から天皇へと政権が奪還され、
「建武の中興」と呼ばれる天皇専制の「建武新政」復古となるはずであった。
- だが、後醍醐天皇の手兵となった悪党らにより 宮中・王都の秩序は乱れ風紀は紊乱した。
また、多くの地方武士らは恩賞にありつけず冷遇され、 親政への不満を急速に募らせていった。
- そして、わずか2年後、足利尊氏が反旗を翻し、光厳上皇を奉じて入京し、光明天皇を即位させた。
- 状況から和睦を選んだ帝だったが、その実態は足利尊氏の幕府の容認であり敗北であった。
- 北朝の光明天皇が即位すると、後醍醐帝は偽の神器を光明帝に渡し、真実の神器は自身が携え、吉野に潜幸した。
- ほどなく室町幕府が誕生。帝は吉野において全朝敵を滅ぼすという悲願を達成することなく波欄の生涯を閉じた。
- その後、南朝(宮家)と北朝(武家方)との対立の時代を迎える。
- 吉野にあった南朝の神器は、賀名生(あのう)、金剛寺を経て、半世紀後の元中9年(1392)、南北朝の合体により京に戻された。
【 後醍醐天皇:玄松子の祭神記 】