[HOME] > [神社記憶] > [北海道東北地方] > |
|
倭文神社
しとりじんじゃ
岩手県遠野市土渕町土渕18地割174
|
||
遠野市土渕町にある。
遠野駅から340号線を北東に3Kmほど。
そこで右折するのだが、その角に倭文神社の案内板がある。
そこから少し走ると、境内入口があり、南の山へ向かって参道がのびている。
坂道を登ると、涼しげな境内。見様によっては怪しげな雰囲気。
境内の左手にある境内社・普賢社の中には仏像があった。
社名から普賢菩薩と思われる。
勧請年代は不詳。
明治までは文殊様と呼ばれており、
現在も拝殿の額には、「文殊社」とある。
文殊菩薩は、普賢菩薩と共に、釈迦如来の脇侍。
如来とは悟りを得た、世界の中心。
菩薩は、悟りを得る前段階の存在で、観音菩薩や地蔵菩薩が有名。
悟りを得る前というのが本来の姿だが、あるいは、すでに悟りを得ており、
その慈悲の性によって、人々の救済を願って活動している存在とも考えられている。
文殊は、特に「三人寄れば文殊の智恵」というように、
智恵に長けた菩薩。智恵の象徴と考えられている。
当社の神楽組ゴンゲサマに関して、
『遠野物語』に以下のように記述されている。
ゴンゲサマといふは、神楽舞ひの組ごとに一つづつ備はれる 木彫の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり。 はなはだ御利生のあるものなり。 新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、 土淵村字五日市の神楽組ゴンゲサマと、 かつて途中にて争ひをなせしことあり。 新張のゴンゲサマ負けて片耳を失ひたりとて今もなし。 毎年村々を舞ひてあるくゆゑ、これを見知らぬ者なし。 ゴンゲサマの霊験はことに火伏せにあり。 右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮れ宿を取りかねしに、 ある貧しき者の家にて快くこれを泊めて、 五升桝を伏せてその上にゴンゲサマを据ゑ置き、 人々は臥したりしに、 夜中にがつがつと物を噛む音のするに驚きて起きて見れば、 軒端に火の燃え付きてありしを、 桝の上なるゴンゲサマ飛び上がり飛び上がりして 火を喰ひ消してありしなりと。 子供の頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、 その病を齧みてもらふことあり。 −『遠野物語 第百十話』より− |
ここで、八幡のゴンゲサマの耳を取ったのが、当社のゴンゲサマ。
ただし、『遠野物語拾遺 第五十八話』では、八幡の権現様が負けたのは、
山本某の家の権現様となっている。
この八幡は、現在の遠野郷八幡宮のこと。
ところで、当社「文殊様」がどうして明治に倭文神社と改称されたのだろう。
資料には見当たらなかったが、ひょっとすると、文殊と倭文の文字の類似か。
祭神に関しても、通常の倭文神社祭神(天羽槌雄命)ではないし、
織物と関連があるようにも見えない。
鳥取の倭文神社は「下照姫命」を祀っているが、これは例外。
鳥取(伯耆国)と何か関係があるのか?
本殿は、神明造を、無理やり流造に改造したような感じ。
鳥居 | 参道鳥居 | 境内社・普賢社 |
境内 |
拝殿、額には「文殊社」 | 本殿 |
旧村社「倭文神社」大要
−参道案内板− 当神社の例祭日は旧暦7月25日であったが、現在は8月20日に行っている。勧請年月日は明らかではないが、昔から「お文珠様」と呼ばれていて、例祭には学童たちが習字を奉納して筆写の上達を祈った。御祭神は天照皇大神・瀬織津姫命・下照姫命である。明治維新後、倭文神社と改めた。 −『平成祭データ』− |