[HOME] > [神社記憶] > [北海道東北地方] > |
|
鶴ケ峯八幡宮
つるがみねはちまんぐう
宮城県黒川郡大和町宮床字赤坂73
|
|
式内社 陸奥國黒川郡 須伎神社 |
宮城県の大和町にある。
東北自動車道・大和I.C.の西5Kmほどの宮床に鎮座。
七ツ森の近く、
457号線(羽後街道)の西側に境内入口がある。
赤い鳥居が建ち、傍らには石碑が並び、
案内板も設置されている。
前回訪れた時(5年前の冬)、鳥居から続く参道には
通行止めのゲートがあったので、参拝を中止した。
この通行止めは、一時的なもの、
あるいは季節的なものだと思ったが
今回も、変わらず通行止めだった。
が、せっかく来たんだし、
地図では、それほど奥にあるわけではなさそうだったので
ゲートの横から入り、少し歩いて見た。
100mほど歩くと、道が分岐し
右手に草に覆われた参道と、階段が見えた。
参道と思って歩いていた未舗装の道は
山の方へ続いている。
右に曲がり、参道を進み、階段を上ると境内。
境内の中央に赤い屋根の社殿があり、
後方に本殿。本殿の左手に赤い境内社がある。
当社の参拝目的は、境内社・鳴上賀茂明神宮なのだが、
この祠だろうか。
境内の左手にも、幾つかの小さな祠があるが詳細は不明だ。
寛文三年古記録等が焼失し、創祀年代は不明。
一説には推古天皇六年の創祀とも伝えられる古社。
通称は、宮中八幡。
もとは、当地の一宮と称していたが、鹽竈と紛らわしいという理由で
宮中と改めたらしい。
案内板によると、元々八幡宮が祀られていたが、
長徳元年(995)、宮内少輔が京都の賀茂明神を勧請し、
宮中大明神として祀った。
さらに、鴇田淡路実清が信州より諏訪明神を勧請。
ということで、八幡+賀茂+諏訪という多重祭祀の神社。
ただし、現在の祭神は八幡宮のもののみ。
『宮城県神社名鑑』では、
別当正善院清範は、合祀されている賀茂明神が
式内社・須伎神社であると伝えている。
安永三年(1774)七月の『黒川郡宮床村風土記御用書出』によると
境内社・鳴上賀茂明神宮が、式内社・須伎神社であるという。
鳴上賀茂明神宮が、本殿の左にある境内社かどうか
確認できなかった。
普通に考えれば、これだと思うのだが。
『宮城県神社名鑑』では、境内社は鳴上賀茂、稲荷、諏訪。
参拝を終え、参道を戻り、
通行止めのゲートを出る。
よく見ると、一般車両が通行止めとある。
車を用いた不法投棄を警戒しているのだろう。
鳥居 |
石碑と由緒書き | 通行止め |
参道 |
境内 |
拝殿 | 鳴上賀茂明神宮か? |
社殿 |
鶴ケ峯八幡宮
古来八幡宮があった。長徳元年(九九五年)に宮内少輔が
京都の賀茂明神の御幣を申し下して鶴ケ峯に勧請して、宮中
大明神として祀った。鴇田淡路実清が斯波宮内大輔氏直(黒川氏)の家臣となり、 信州より諏訪明神を勧請して、宮中八幡に祀った。 諏訪明神に神剣の怒撃丸(正和四年一三一五年備前景光作) を鴇田氏が奉納した。 元和七年(一六二一年)二月、伊達政宗が社参した。 宝永元年(一七〇四年)八月、五代藩主の吉村が社参した。 同年十月、社領三十石の地を伊達吉村が寄付した。 享保十五年(一七三〇年)藩主吉村が八幡宮を造営した。その後たびたび吉村の社参があった。 延享元年(一七四四年)六月、六代藩主の伊達宗村が社参。 安永三年(一七七四年)七月
−社前案内板− |