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古四王神社
こしおうじんじゃ
秋田県秋田市寺内字児桜81
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秋田市にある。
秋田駅の北西5Kmほど、7号線の一つ東の道路側、寺内にある。
北に行けば秋田城址がある場所。
道路横に、南東方向へ斜めに境内がある。
雨の中、境内に入ると、左手に社務所。残念ながら無人の様子。
右手には、坂上田村麿を祀る境内社・田村神社が鎮座。
階段を上ると、緑の境内があり、正面に赤い屋根の社殿がある。
拝殿の後方には、垣の中に本殿。
社伝によると、四道将軍の一人・大彦命が
蝦夷平定の際、北門鎮護のため武甕槌神を祀り、
「鰐田浦(あぎたのうら)の神」として祀ったのがはじめ。
後に、阿部比羅夫征夷大将軍が下向の時、大彦命を合祀し、
越王(古四王)と称したといわれている。
『続日本記』によれば、出羽の柵を当地へ移し、
北方防備の本拠地とし、秋田城となった。
古四王、越王、巨四王、胡四王、高志王、腰王、小四王、小姓など
いろいろな表記があるが、すべて当社の関連社と考えられ、
新潟・山形・秋田・岩手に、広く分布している。
もとは聖護院修験道の管轄だったため、仏具の輪宝が神紋。
「古四王」という名前から、仏教の四天王と解釈されるのかもしれない。
輪宝は、真理を示すものであると同時に、破邪の剣の輪でもある。
北方警護の武神を祀る神社には相応しい神紋ではある。
境内入口 | 鳥居から境内 |
境内 |
手水舎と階段 | 境内社・田村神社 |
階段上に社殿 |
拝殿 | 本殿 |
古四王神社参拝のしおり 御由緒 往古のことは詳かならねど、我が北門の鎮護として大毘古命先づ武甕槌神を奉祀し、 齶田浦神と称し次いで阿部比羅夫将軍下向の砌り、大毘古命を合祀して、古四王と 崇めたりと、斎明天皇紀に齶田浦神見え、又彼地の神を祭るなどあり。 三代實録に出羽国正六位上高泉神並從五位下とあるは当社のことなりと。真澄遊覧記に云へり。 蓋しこの地古へ齶田村と称し、鎮座の地を高清水岡と云ふ。 聖武天皇天平五年出羽柵を遷してこの高清水岡に置かれ後秋田城となりて、北辺防備の根據地となり、坂上田村麿将軍これに據られたれば其の守護神となり給ひ、中世秋田城鎮守、古四王大權現と申して、武人並に地方民の崇敬篤く、秋田城之助しばしば社殿を造営し、佐竹藩主特に崇敬ありて、社領六拾石を寄るせられ、明治九年縣社、同十五年四月二十九日國幣小社に列せらる。 古四王神社由緒板 旧國幣社古四王神社由緒 御祭神は武甕槌命と大毘古命である。 由緒の古伝では、崇神天皇の御代に四道将軍の一人として北陸道に派遣された大彦命が、葦原中國平定に功のあった神代の武神武甕槌命を奉齋創祀し、齶田浦神と称されていたが、斉明天皇の四年阿部比羅夫が秋田地方を遠征した際に、祖先でもある大彦命を合祀して古四王神社と称し奉るようになったといわれている。歴史学的には秋田地方に大彦命の遠征が到達していたという明徴はないが、北陸東北の各地に古四王、巨四王、越王などと記される多くの神社が奉祀されているから、極めて古い時代から北陸とそれに續く東北の日本海岸側に亘って広く「こしおう」の神は崇敬されていたのであろう。だから城の國守として北陸に勢のあった比羅夫が、この神を尊崇したことも当然だったであろう。 奈良朝以後は、蝦夷平定の拠点秋田城が神域の高清水岡に営まれることとなったので、城鎮護の武神として尊ばれることになり、ひき續いて中世には安東、秋田氏に、近世には佐竹氏に武神としての崇敬を受けたのである。近くの住民や遠くの信者からは、単に武神としてのみではなく、産土神として豊作や眼病平癒についても広く崇拝されたのである。 明治以後県内ただ一社の国幣社に列せられたのも、その歴史的な神徳の高貴さによるものであった。境内には田村神社(住吉神社・今木神社合祀)岩戸神社、神明社の攝社、末社も鎮座している。 −『平成祭データ』− |
【 古四王神社 (秋田市) 】