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吉備津神社
きびつじんじゃ
岡山県岡山市北区吉備津931
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式内社 備中國賀夜郡 吉備津彦神社 名神大 大吉備津彦命
外陣 東笏御崎神(浦凝別命・鴨別命) 外陣 西笏御崎神(稲速別命・弟彦命) |
岡山市北区吉備津にある。
国道180号線で、岡山市街地の西へ、
吉備線吉備津駅の南、吉備中山の麓に鎮座。
中山の周囲を時計回りに2Kmほど進むと、
備前一宮である吉備津彦神社が鎮座している。
つまり、吉備中山は、備前・備中の境にある。
中山の北部には龍王山(175m)、南部に茶臼山(160m)がある。
吉備津造本殿 |
日本書紀によれば、祭神・大吉備津彦命は、第十代崇神天皇の御代、
朝廷に従わない遠国の平定のため派遣された、皇族の四人・四道将軍の一人。
西道(山陽道)に派遣された大吉備津彦命は、
美作・備前・備中・備後を平定し、「吉備国」とした。
古事記によれば、第七代孝霊天皇の皇子・比古伊佐勢理比古命(大吉備津彦命)は、
弟・若日子建吉備津彦命と協力して、吉備の国を平定した。
社伝では、その後、吉備の中山の麓に「茅葺宮」を造って住み、
281歳の時、この宮で薨じ、墓は中山山頂に造られた。
五代の孫である加夜臣奈留美命は、「茅葺宮」に社殿を建てたのが、
当社の起源とされている。
祭神の伝承で、もっとも有名なものが、温羅退治である。
百済の王子ともされる温羅と祭神の死闘は、多くの遺蹟に物語られている。
祭神は、備中の新山に陣を構えた温羅に対し、吉備の中山の陣をはり、
片岡山に石の城(石楯)を築いた。倉敷市の楯築神社である。
戦いが始まると、両者の矢は必ず、途中で絡み合い、落下する。
その場所が、岡山市高塚の矢喰宮。
そこで、祭神は、二本の矢を放つと、一本は絡まり落ち、
見事、一本は温羅の左眼を貫いた。その血が流れた川が血吸川。
温羅は、たまらず雉になって逃げ、祭神は鷹となって追う。
追いつかれた温羅は、鯉となって血吸川に逃げる。
すると、祭神は鵜となって、その鯉を捕える。その遺蹟が岡山市矢部の鯉喰神社である。
捕えられた温羅は、首をはねられ、さらされた。岡山市首部(こうべ)がその遺蹟。
祭神は、家来の犬飼武に命じ、犬にその首を食わせたが、
温羅の髑髏は、吠え続けたので、祭神は竃殿の下に埋めた。
山麓に沿って、南北に長い境内は、その様相が他社と異なる。
まず、北隨神門をくぐり、階段を登るといきなり大きな本殿がある。
本殿横から、南隨神門の先には、地形の起伏に合わせた廻廊が
南へ延び、途中の摂末社を越えて、南端の本宮で終わる。
そこから境内を出て、茶臼山を登って行くと祭神の御陵がある。
当社は昔、五社大明神とも呼ばれ、五社で構成されていた。
現本殿の「正宮」、そして廻廊南端の「本宮」。
さらに、現本殿から南八〇〇mにあった「新宮」は、
現在、本宮に合祀されており、鳥居や社地が現存しているらしい。
また、かってはこの新宮まで廻廊が延びていたようだ。
同じく本宮に合祀された「内宮」は、本殿から四〇〇mはなれた
吉備中山の中腹にあったが、今は礎石のみが残るらしい。
そして、本殿背後の山にある「岩山社」である。
平安時代末に流行した歌謡を編纂した『梁塵秘抄』には、以下の歌がある。
一品聖霊吉備津宮、新宮・本宮・内の宮、隼人崎、北や南の神客人、艮みさきの恐しや
この「艮みさき」とは、本宮外陣の東北隅にある厨子に祀られる
「丑寅御崎」であり、山陽地方に多く分布する「御崎神社」の本社にあたる。
その分布が、吉備国の勢力圏と見ることもできる。
北の境内入口横には、「矢置石」がある。
温羅の矢を、祭神が空中で掴み取り、置いた場所がこの「矢置石」。
矢立の神事が斎行される。
本殿の南北には、朱の隨神門があり、
北隨神門は境内入口の階段途中。階段上に、本殿と連なった拝殿がある。
矢置石 | 境内入口、左の囲いが矢置石 |
北隨神門 | 上から北隨神門 |
北隨神門から拝殿 | 拝殿 | 拝殿 |
本殿は、吉備津造という特殊な形状をしている。
「比翼の入母屋造」とも呼ばれ、概観は、入母屋造の二棟を連結した形。
内部は、周囲に外陣を巡らし、中心部に向って中陣・内陣・内々陣と続き、
中心に行くほど床や天井が高くなっている。
本殿 | |
當 社 案 内
−境内案内より− |