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水無神社
みなしじんじゃ
岐阜県高山市一之宮町石原5323
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式内社 飛騨國大野郡 水無神社 |
飛騨の高山市(旧宮村)にある。
飛騨一ノ宮駅の近く、高山市から南下する41号線の東そば。
雨上がりの早朝、朝靄の中の境内。
すでに、近くの方が参拝に訪れていた。
創祀年代は不詳。
社名は、「ミナシ」と読み、「ミズナシ」とも読む。
「水無」は、水主であり、
水主の神、あるいは、水主直の意味。
水主直は、新撰姓氏録では、火明命の後裔。
また、「水無」は、単に地名を付けたとする説もある。
祭神も、諸説あってハッキリしない。
それが、神社本来の姿であるような気もする。
山下集落の中央に、高さ20m、周囲1Kmの御旅山がある。
当社の南西7Kmにある位山を神体山とし、その神霊を祀る。
御旅山を、大己貴命の神陵とする説、前方後円墳とみる説などがある。
位山(1529m)には遊歩道があり、巨石群があるらしい。
島崎藤村の父・正樹が、宮司を勤めていた神社。
島崎藤村の『夜明け前』に登場する青山半蔵のモデルで、
境内には、その歌を刻んだの石碑がある。
きのふけふしぐれの雨ともみぢ葉と
あらそひふれる山もとの里
数段の階段の上が、広い境内。
左手に絵馬殿、右手には、ちょっと怪しげな雰囲気の社があるが、
これは、ダムに水没した白川郷の白川神社。
正面には廻廊に囲まれた神門。
後方の木々には、朝靄がただよい、まさに神域。
境内入口 | 社号標と御神木 |
境内 |
絵馬殿(旧拝殿) | 白川神社 |
一般参拝人は、神門のところから参拝する。
神門の奥に、拝殿があり、背後に本殿が鎮座。
神門 |
拝殿 |
一度境内を出て、周囲を歩くと、流造の本殿を見ることができる。
本殿 |
境内の左手の林の中に、小さな祠が祀られていた。祖霊社だろうか。
ひっそりとだが、良い場所にある。
鳥居の側には、神木。ネジの木は、伐ることが決まったその夜に、
一夜にしてねじまがってしまい、神の祟りと恐れられ、
その後、当社の木が切られることはなくなったという。
境外左手の祠 | 神木・ネジの木 | 右手の稲荷社 |
飛騨一宮水無神社略誌
−境内案内より− 古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。 史上にあらわれるのは平安初期、貞観九年(867年)神位を授けられた記事にはじまる。 中世鎌倉時代には社領は付近十八 ケ村に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。 江戸時代に入って歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般の厚い信仰にささえられ、 明治四年五月十四日、太政官布告によって国幣小社に列せられ、昭和十年より国費をもって十年の歳月を要する造営が なされ今日の社殿が完成した。昭和二十一年二月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。 社名の水無は『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、 水主の意味である。社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、 鬼川原(覆ケ川原)の地名となっている。この宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、 水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称している。この霊山には一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、 平治元年(1159年)には飛州一宮神主から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、 一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。 −『平成祭CDデータ』− |