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都萬神社
つまじんじゃ
宮崎県西都市大字妻1
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式内社 日向國兒湯郡 都萬神社 |
西都原古墳郡の東。南には国分の地名もあり、
古代の中心地。日向國総社であった。
現在も近くに西都市役所がある。
東には一ッ瀬川も支流、桜川が流れている。
敷地はかなり広く、公園になっており、
南と東に大きな鳥居がある。
創祀年代は不詳。
『続日本後紀』に、承和四年(837)八月官社に預かったとある古社で、
式内社・都萬神社に比定されている神社。
妻宮、妻万宮、日向総廟五社大明神などとも呼ばれていた。
太古、妻満川のほとりに住む夫婦の二神(妻満神)が、
宮を建て、住んでいた。
宮の西方の清らかな流に、稲の種がひとりでに生じた。
二神は、その種を植え、田を開き、管理した。
これが「初農業従レ此始」だという。
また、庚午年11月19日、庚午の日、
土の中から、男一人、女一人を掘り出し、
当社の祭祀を行わせた。日下部氏の誕生である。
日本酒発祥の地。
境内は一段高くなっている。境内自体はそれほど広くはない。
南の鳥居 | 東の鳥居 |
境内 |
拝殿前の鳥居 |
本殿 | 拝殿 |
社殿 | おしもり塚 |
祇園神社 | 稲荷神社 |
大山祇神社 | 霧島神社・四所神社 |
都萬神社案内 この神社は天孫ニニギの尊の妃木花咲耶姫を祀り都萬神社または妻萬宮と申します 祭神木花咲耶姫はオオヤマズミの命の姫 君でニニギの尊との御結婚にはコトカツ クニカツナガサの神が媒酌をとりもち 日本最初の正式な華燭の式典を挙げら れました。故に古来からこの結婚の喜び にあやかりたいと崇敬の厚いお宮であります 祭神木花咲耶姫は青島神社のヒコホホ デミの尊の母君鵜戸神宮のウガヤフキアエズ の尊の祖母君にあたり宮崎神宮の神武天皇 の曽祖母で日本民族の彌来をもた らせた国母神でありますから女性の守護 神お産の神と敬い家内安全の祈願に 参拝の多い神社であります。 西都原御陵参考地の正面にある女狭穂塚 はこの神社の祭神木花咲耶姫の御陵と つたえられています。 −境内案内− 都万神社 宮崎県西都市大字妻。旧県社(現、別表神社)。 木花開耶姫命を祀る。創立年代不詳。『続日本後紀』によると、承和四年(八三七)八月朔、官社に預かっている。『三代実録』によると、天安ニ年(八五八)一○月二二日に従五位上から従四位下が授けられている。延喜の制(九二七)には小社に列し、祈年の国幣に預かった。中世には、妻宮,妻万宮・日向総廟五社大明神などと称され、武家、領主の尊崇が篤かった。建久の頃には、九八丁の神領を持っていたといわれる。天正年間、島津義久が社殿を改築したという。慶長六年(一六○一)九月一四日、佐土原藩主島津氏は、供田三一五石五斗四升八合を寄進、神人三○戸を定めるとともに、年問七五度の祭祀を厳修させたと伝えられている。当社は、一ツ瀬州の中流域に発達した神社であり、この付近は、西都原古墳群で有名な場所である。またこの地には、国府が置かれ、その後、急速な発展を遂げた社である。鎌倉時代に入ると、日向国四式内社の中では、最も多く社領を持つようになり、その後、実質的には、最も実力のあった社となった。また往古、末社四四社、神官三○余家、社僧二家あったともいわれている。明治六年(一八七三)、県社に列格した。境内の大楠は、天然記念物に指定されている。例祭二月一八、一九日。神輿渡御の神幸があり、つくり人形や舞踏などの催しがあり、全市をあげてのにぎやかなものである。旧暦の七月七日には、更衣祭、旧暦一一月二日には鎮火祭が行われる。当社は、また妻万の音読から「さいまん様」と称され、市民に親しまれている。−『神社辞典』− 都萬神社案内記 ◎天孫降臨と都萬神社 恋にやさしい縁結びの神 当都萬神社は大山祗神の娘木花開耶姫命をお祀りする延喜式内のお宮で妻萬宮とも申します。天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命が逢初川で見逢いされ、事勝国勝長狭神の仲人により日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ、新婚生活を送られた処と伝えられ、サクヤ姫は結婚一夜にしてご懐妊されたので、天孫ニニギの尊ははたして自分の子供であろうか?と疑われたのを恥給い、木花開耶姫命は身を以て貞節を示さんものと〃無戸室〃産殿に火を放ち「もし貴方の子供でなかったら私は焼け死ぬでありましょう、貴方の子供であれは火に害のう事なく無事に生まれましょう」と誓いをたてられ、無事に三人の皇子(火闌降命、彦火火出見尊、火明命)をお生みになり女性としての純潔を示されたところと伝えられます。そのことは『日本書紀』に次のように記されています。 天孫瓊々杵尊曰く「汝は(サクヤ姫に対し)霊異しき威有し。子等復倫に超れたる気有り」と仰せになり木花開耶姫命をいたわり敬愛の情をお示しになっています。三皇子の御名は火の中でお生まれになったので火の字が附してあります。尚無戸室産殿でお生まれになった三皇子の産湯をお使いになった〃児湯の池〃が史跡として保存されています。 さて無事に御生まれになった三皇子をお育てになるに母乳で足りない分を補うため一方ならぬ御苦心の程が伺われます。西都原よりわき出づる水を利用して狭名田と言う細長い田を作り、その田の稲(お米)で甘酒えお造り、その甘酒を以て三人の皇子を御養育されたと伝えられています。都萬神社では今尚秋の大祭には必ず甘酒を神前にお供えしてお祭りをすることになっています。又『日本書紀』に木花開耶姫命「卜田を以て狭名田と曰う、その田の稲を以て天の甜酒を醸みて新嘗す、渟浪田の稲を用て飯に為しぎて新嘗す」とあります。是が地上における新嘗祭の起源ともなっています。甜酒美酒のことなりとあり、我国で始めてお米を以て造られたお酒の発祥地は西都市であり、木花開耶姫を祀る都萬神社であることが『日本書紀』により証明されています。都萬神社南西に当たる処に現に酒元と云う部落がありバス停留所もあります。 ◎恋の願いが叶い良縁に恵まれる 特殊神事〃更衣祭〃 都萬神社の更衣祭は日本のお祭りの中でも最も珍しい祭典行事であります。祭神木花開耶姫命が天孫瓊々杵尊に逢初川のお見逢いによって長狭神の媒介によりお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりする神事で、晴れの婚礼衣裳をサクヤ姫の御神像にお着せ申し、白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ、花嫁姿になられる有様を生でじかに行うゆかしい神事であります。この神事が我が国婚姻儀礼のハジメであると社伝にあります。当日は午後三時まで全く可愛らしい清らかな姿を御神殿正面に御遷座申し上げ、その間一般参拝者に拝観が許されます。良縁に恵まれ仕合せな結婚が出来た人。又良縁に恵まれたい人の参拝が多く、殊にお母さん方のお参りが多いのは母親の愛情から女性の守り神として崇敬が厚いからでありましょう。青年男女のお参りは特に正月の年頭参拝は押すな押すなの盛況ぶりで最近は東京方面からの女性参拝も多くなっています。 −『平成祭データ』− |
【 都万神社 都萬神社(印刷用ページ) 】