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宮川神社
みやがわじんじゃ
京都府亀岡市宮前町字宮川神尾山2  Zenrin Data Com Maps display !!


菊花

式内社 丹波國桑田郡 神野神社
旧村社

御祭神
伊賀古夜姫命 譽田別命

京都府亀岡市にある。
亀岡駅の西13Kmほどの宮前町宮川に鎮座。
372号線を西へ進む、宮川交差点付近から西へ入った場所。
山頂に金輪寺のある神尾山(神野山)の東麓、
集落の奥に境内がある。

灯籠の立つ参道入口を進むと
「延喜式内宮川神社」と刻まれた社号標があり石鳥居が立っている。
鳥居をくぐると白土塀の参道。
北東から参道を進むと、奥に境内があるが、社殿は東向きのため、
社殿の斜めから入る形で、ちょっと変わってる。

境内中央に拝殿があり、拝殿の後方、階段上に本殿を納めた覆屋。
本殿は檜皮葺流造のようだ。
その本殿の後方に大きな磐が、今にも落ちそうな位置にある。

本殿の左手に林に続く小道があり、
小道の中に貴船大神や玉依姫命を祀る小祠がある。

参拝は八月の暑い日だったが、
林の小道は苔むした静かで涼やかで気持ち良い。
ただ、あまりじっとしてると蚊に襲われるかもしれない。

神尾山(神野山)の山麓にあり、
神尾神社、神野神社とも称された神社。

社伝によると、文武天皇の大宝年間(八世紀初旬)に
山上に伊賀古夜姫命を祀ったのが創祀。
式内社・神野神社に比定されている古社。

また、それ以前の欽明天皇三十二年(571)に
宇佐八幡宮が山中に勧請されていたらしいが、
天正五年(1577)の明智光秀と波多野秀治の合戦の際に
両社とも焼失し、その後落雷や不作などが続いたため
正保四年(1647)山麓の現在地に社殿を造営し
山上にあった神野神社、山中の八幡宮を合わせ祀り
宮川神社と改称した。

神尾山山上の金輪寺は、当社の神宮寺。
桓武天皇延暦二年(783)に建立され、
山上にあった神野神社は金輪寺の地主社とされた。

祭神の伊賀古夜姫命は、京都下賀茂神社祭神・玉依姫命の母神。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して
大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、
その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれたという。

その関連からか、葵祭の際には、宮内庁からのお召しにより
氏子青年が、毎年諸役として参加しているという。

覆屋の中の本殿には、菊の紋を染めた幕がかけられていた。
神紋かどうかは未確認だが、とりあえず掲載しておく。


参道入口

境内入口

土塀の参道

境内

境内

社殿

本殿覆屋

本殿の後に大岩

奥の小道に貴船大神

玉依姫命

小道から本殿

宮川神社(延喜式内社)宮前町宮川
祭神に伊賀古夜姫命誉田別命を祀る。
当社の創建は文武天皇大宝年間(七〇一〜七〇八)山上に伊賀 古夜姫命を鎮めたのが起源とされ古くは神野山と称し 延喜式にいう神野神社に比定される。また、誉田別命 (八幡大神)は欽明天皇三十二年(五七一)に宇佐八幡宮 より神野山山中に遷し祀られたと伝えられ今に社地を 八幡平という。天正五年(一五七七)明智光秀と波多野秀治 の合戦の際両社とも焼失し、その後落雷不作が続いた ので、正保四年(一六四七)山麓の現在地に社殿を移し 二神をあわせ祀り。名称も宮川神社と改めたと伝えら れる。伊賀古夜姫命は京都下賀茂神社の祭神玉依 姫命の母神であり、下賀茂神社と関係深く葵祭の 行列に氏子青年が奉仕に参加している。

−社前案内板−



【 宮川神社 (亀岡市)(印刷用ページ) 】

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