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対称配置の妙・対馬の祭祀 |
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対馬の式内社巡りの途中でつぎのような記述を見た。
・上県の天神多久頭魂神社と下県の多久頭神社は一対。
・上県の天神多久頭魂神社側の神御魂神社を「主基(スキ)宮」
下県の多久頭神社側の高御魂神社を「悠紀(ユキ)宮」という。
なるほど、天道信仰は上下の県で同じように信仰されていたわけだ。
と、そこで、式内社探しに用意した手持ちの地図を見て、考えた。
対馬には似たような祭祀対象の神社が幾つかある。また似たような場所も。
その幾つかを地図の上にプロットしてみた。
上県と下県では、それぞれの神社の配置が対称的であることに気づく。
上県の西海岸は下県の東海岸に、上県の東海岸は下県の西海岸に、相当すると考えて良いのではないだろうか。つまり、「円対称」
ひょっとすると、対馬は「対の島」と言えるのかも知れないな。
「だから、なんだ。」と問われても、「それだけだ。」としか返答できない。
が、通常、ある祭祀、それが自然発生した信仰ならば、中心となる「場」を取り巻くように放射状・同心円状に同一祭祀の場(神社)が形成される。
あるいは、その信仰を持つ人々の移動に伴いその場はルートを形成しながら点在する。
ところが対馬の場合それが当てはまらないようだ。
これは、対馬が、「島であること」「上・下の2分化」「半島・大和の中間に位置」などの理由により、その信仰が極めて人工的に改竄・修正・矯正されて結果ではないだろうか。
よく、対馬と壱岐が比較・対比され、平地の少ない対馬は漁が生活の主であり、天候を左右する太陽(天道)信仰が盛んで、壱岐は平地の島であるため、暦を重視し月(月読)への信仰が盛ん、と言われる。
しかし、農業(壱岐)にとっても太陽は重要な恵みであり、漁業(対馬)にとって星(月)の運行を知ることは重要な技術であるはずだ。
上に示した、対称をなす祭祀の対象(ちょっとややこしいが)を列記してみると、
・天道法師
・神御魂と高御魂
・祝詞(天児屋根と天太玉)
・雷大臣命(中臣烏賊津使主)
・鉱山
・八幡
となるが、天道法師は別として、朝廷の影響が大きいことがわかる。
また、上県の天神多久頭魂神社を「主基(すき)宮」とし、下県の多久頭魂神社を「悠紀(ゆき)宮」とする場合がある。大嘗祭に定められた二つの祭祀の系列で、大嘗宮は二殿である主基宮と悠紀宮で構成されている。 ここで、鉱山関連の祭祀の場が、上県では「金」、下県では「銀」を用いていることと関連があるような気がするのだが。
最後に、対馬の祭祀で重要な鍵となる、天道法師について、ここに紹介。
『對州神社誌』より
「天道。神躰并社無之。
對馬州醴豆郡内院村に 照日之某と云者有 一人之娘を生す 天武天皇之御宇白鳳十三甲申歳二月十七日 此女日輪之光に感して有妊て 男子を生す 其子長するに及て聡明俊慧にして 知覺出群 僧と成て後巫祝の術を得たり
朱鳥六壬辰年十一月十五日 天道童子九歳にして上洛し 文武天皇御宇大寶三癸卯年 対馬州に歸來る
靈龜二丙辰年 天童三十二歳也。此時に當て 元正天皇不豫有 博士をして占しむ 占日 對馬州に法師有 彼れ能祈 召て祈しめて可也と云 於是其言を奏問す 天皇則然とし給ひ 詔して召之しむ 勅使内院へ來臨 言を宣ふ 天童則内院某地より壹州小まきへ飛 夫より筑前国寶滿嶽に至り 京都江上洛す 内院之飛所を飛板と云 又御跡七ツ草摘とも云 天童 吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御經を誦し 祈念して御悩平復す 於是 天皇大に感悦し給ひて 賞を望にまかせ給ふ
天童其時對州之年貢を赦し給はん事を請て 又銀山を封し止めんと願 依之醴豆之郷三里 渚之寄物浮物 同濱之和布 瀬同市之峯之箆黒木弓木 立龜之鴬 櫛村之山雀 與良之紺青 犬ヶ浦之鰯 對馬撰女 并川中之罪人天道地江遁入之輩 悉可免罪科受 右之通許容
又寶野上人之號を給りて歸國す 其時行基菩薩を誘引シ 對州へ歸國す 行基観音之像六躰を刻 今之六観音 佐護 仁田 峯 曾 佐須 醴豆ニ有者 是也 其後天童は醴豆之内卒士山に入定すと云云
母公今之おとろし所の地にて死と云 又久根之矢立山に葬之と云(<-多久頭魂神社)
其後天童佐護之湊山に出現有と云 今之天道山是也(<-天神多久頭魂神社)
又母公を中古より正八幡と云俗説有 無據不可考 右之外俗説多しといへども難記 仍略之 不詳也」
・上県の天神多久頭魂神社と下県の多久頭神社は一対。
・上県の天神多久頭魂神社側の神御魂神社を「主基(スキ)宮」
下県の多久頭神社側の高御魂神社を「悠紀(ユキ)宮」という。
なるほど、天道信仰は上下の県で同じように信仰されていたわけだ。
と、そこで、式内社探しに用意した手持ちの地図を見て、考えた。
対馬には似たような祭祀対象の神社が幾つかある。また似たような場所も。
その幾つかを地図の上にプロットしてみた。
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上県と下県では、それぞれの神社の配置が対称的であることに気づく。
上県の西海岸は下県の東海岸に、上県の東海岸は下県の西海岸に、相当すると考えて良いのではないだろうか。つまり、「円対称」
ひょっとすると、対馬は「対の島」と言えるのかも知れないな。
「だから、なんだ。」と問われても、「それだけだ。」としか返答できない。
が、通常、ある祭祀、それが自然発生した信仰ならば、中心となる「場」を取り巻くように放射状・同心円状に同一祭祀の場(神社)が形成される。
あるいは、その信仰を持つ人々の移動に伴いその場はルートを形成しながら点在する。
ところが対馬の場合それが当てはまらないようだ。
これは、対馬が、「島であること」「上・下の2分化」「半島・大和の中間に位置」などの理由により、その信仰が極めて人工的に改竄・修正・矯正されて結果ではないだろうか。
よく、対馬と壱岐が比較・対比され、平地の少ない対馬は漁が生活の主であり、天候を左右する太陽(天道)信仰が盛んで、壱岐は平地の島であるため、暦を重視し月(月読)への信仰が盛ん、と言われる。
しかし、農業(壱岐)にとっても太陽は重要な恵みであり、漁業(対馬)にとって星(月)の運行を知ることは重要な技術であるはずだ。
上に示した、対称をなす祭祀の対象(ちょっとややこしいが)を列記してみると、
・天道法師
・神御魂と高御魂
・祝詞(天児屋根と天太玉)
・雷大臣命(中臣烏賊津使主)
・鉱山
・八幡
となるが、天道法師は別として、朝廷の影響が大きいことがわかる。
また、上県の天神多久頭魂神社を「主基(すき)宮」とし、下県の多久頭魂神社を「悠紀(ゆき)宮」とする場合がある。大嘗祭に定められた二つの祭祀の系列で、大嘗宮は二殿である主基宮と悠紀宮で構成されている。 ここで、鉱山関連の祭祀の場が、上県では「金」、下県では「銀」を用いていることと関連があるような気がするのだが。
最後に、対馬の祭祀で重要な鍵となる、天道法師について、ここに紹介。
『對州神社誌』より
「天道。神躰并社無之。
對馬州醴豆郡内院村に 照日之某と云者有 一人之娘を生す 天武天皇之御宇白鳳十三甲申歳二月十七日 此女日輪之光に感して有妊て 男子を生す 其子長するに及て聡明俊慧にして 知覺出群 僧と成て後巫祝の術を得たり
朱鳥六壬辰年十一月十五日 天道童子九歳にして上洛し 文武天皇御宇大寶三癸卯年 対馬州に歸來る
靈龜二丙辰年 天童三十二歳也。此時に當て 元正天皇不豫有 博士をして占しむ 占日 對馬州に法師有 彼れ能祈 召て祈しめて可也と云 於是其言を奏問す 天皇則然とし給ひ 詔して召之しむ 勅使内院へ來臨 言を宣ふ 天童則内院某地より壹州小まきへ飛 夫より筑前国寶滿嶽に至り 京都江上洛す 内院之飛所を飛板と云 又御跡七ツ草摘とも云 天童 吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御經を誦し 祈念して御悩平復す 於是 天皇大に感悦し給ひて 賞を望にまかせ給ふ
天童其時對州之年貢を赦し給はん事を請て 又銀山を封し止めんと願 依之醴豆之郷三里 渚之寄物浮物 同濱之和布 瀬同市之峯之箆黒木弓木 立龜之鴬 櫛村之山雀 與良之紺青 犬ヶ浦之鰯 對馬撰女 并川中之罪人天道地江遁入之輩 悉可免罪科受 右之通許容
又寶野上人之號を給りて歸國す 其時行基菩薩を誘引シ 對州へ歸國す 行基観音之像六躰を刻 今之六観音 佐護 仁田 峯 曾 佐須 醴豆ニ有者 是也 其後天童は醴豆之内卒士山に入定すと云云
母公今之おとろし所の地にて死と云 又久根之矢立山に葬之と云(<-多久頭魂神社)
其後天童佐護之湊山に出現有と云 今之天道山是也(<-天神多久頭魂神社)
又母公を中古より正八幡と云俗説有 無據不可考 右之外俗説多しといへども難記 仍略之 不詳也」
【 対称配置の妙・対馬の祭祀:玄松子の雑記帳 】