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天神多久頭魂神社
あめのかみたくづたまじんじゃ
長崎県対馬市上県町佐護洲崎西里286
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式内社 對馬嶋上縣郡 天神多久頭多麻命神社 |
長崎県対馬市にある。
上対馬の北部、佐護洲崎に鎮座。
佐護川の河口部、佐護湾近くにあり、社前に棹崎公園の看板がある。
境内には社殿はなく、神籬磐境の祭祀形態。
境内奥の鳥居の後方、階段の上に鏡?が祀られている。
創祀年代は不詳。
式内社・天神多久頭多麻命神社の有力な論社。
『對州神社誌』に、天道大菩薩とあるように
天神多久頭魂とは、いわゆる天道と見なされており
佐護川対岸の千俵蒔山と相対する位置に天道山がある。
『對州神社誌』には天道山を「麦百俵蒔程之山」と記されており、
雄嶽(北側)と雌嶽(南側)の二つの峰があって、
雄嶽の頂上に鎮まっているという。
対馬の北部の港にあり、半島に近い場所。
そのため、千俵蒔山には、防人が配されていて
頂上に「烽(のろし、とぶひ)」の跡がある。
とういわけで、当社境内は天道山の遥拝所にあたる。
対馬の南端、豆酘の龍多山には多久頭魂神社が祀られており
北に在る当社と、対を成している。
天皇の即位の際に執り行われる大嘗祭では、
悠紀(ユキ)殿と主基(スキ)殿が設営され、
京都以東以南の悠紀地方と、以西以北の主基地方の
両地方の斎田でとれた新穀を献上する。
よって、対馬の南北にある多久頭魂神社を、
当社を「主基(すき)宮」と称するのに対し、
豆酘の多久頭魂神社は「悠紀(ゆき)宮」とする。
悠紀と主基が何を意味するのか明確になっていないのだが、
一説には、軍事を表す靭と、農事を表す鋤であるとする。
軍事・農事を掌握統治し、政治・神事の長とする儀式とする。
棹崎公園の看板 | 鳥居 |
境内 |
鳥居 | 鳥居 |
階段上に鏡 |
天神多久頭神社 旧郷社 (お天道様) 上県郡上呉町佐護西里 佐護深山港より車 祭神 天神地祇 例祭 三月一日 旧一月三日 本殿 神籬磐境 境内 一五二二坪 宝物 丸鏡(四四面) 氏子 七〇戸 崇敬者 二〇二〇人 神事と芸能 遥拝所に神籬をたて祭典を行う。 由緒沿革 神武天皇諸国に詔して天神地祇を祭らるるの神祠なり。神籬磐境の内に人を入れず、延喜式神名帳に載せられし上県天神多久都多麻神社である。貞観一二年従五位上を授けられる。明治七年郷社に列せられた。 −『神社名鑑』− 多久頭魂神社 長崎県下県郡厳原町豆酘龍多山。旧郷社。式内社。祭神は天照大御神・天忍穂耳命・日子穂々出見命・日子火能邇々芸命・鵜茅草葺不合命。豆酘龍良山を神の山とし、古い祭祀形態としての神籬磐境が置かれ、豆酘寺門に遥拝所がある、歴史は古く『三代実録』に貞観一二年(八七〇)三月五日「詔授対馬嶋正五位上多久都神従四位下」とあり、後の『延喜式』にも「多久頭神社」とある、社記には、橿原朝の時、津島県直建禰巳巳命に詔して天神地祇を祀らせたのをはじめとしている。古来、当社を別名「悠紀(ゆき)宮」とし、「主基(すき)宮」には天神多久頭魂神社(上県郡上県町佐護西里。式内社、神籬磐境の祭祀形態)をあてている。例祭一〇月一八日。特殊神事に船浮神事(カンカン祭)、亀卜(参候祭)、赤米神事がある。文化財に康永三年(一三四四)銘の梵鐘、正平二一年(一三五七)銘の金鼓、その他高麗版一切経等がある。なお、境内に高御魂神社(式内名神大)が鎮座する。 −『神社辞典』多久頭魂神社の項にある当社の記述− |
「式内社調査報告」を読んでいて面白い事を見つけた。
豆酘の多久頭神社と、佐護の天神多久頭神社は一対に考えられている。
対馬の北と南に位置し、天道信仰のシンボル。
豆酘の多久頭神社の側には高御魂神社(式内社)があり、天道法師の母神であるという。
そして、ここ佐護の天神多久頭神社の側には、神御魂神社があるのだ。
俗称、女房神。天道の母神だ。
他の3社が式内社なのに、ここだけ式内社になっていない。だから、興味を持った。
佐護湊、天神多久頭神社の対岸にある。林の中に埋もれ、雑草だらけ。
神御魂神社 |