[HOME] > [神社記憶] > [九州地方] > |
|
志々伎神社
しじきじんじゃ
長崎県平戸市野子町251
|
||
式内社 肥前國松浦郡 志々伎神社 |
長崎県平戸市の南端、野子町にある。
平戸の付け根・平戸大橋から383号線をひたすら南下20Km程度。
志々伎地区で19号線に変わり、10Kmほど。
正確な距離はわからないが、とにかく走っていれば迷わず到着する。
当社は、上宮・中宮・下宮・沖都宮の四社によって構成されている。
沖都宮は、19号線の突き当たり、宮之浦の港から100m程の小島にある。
現在は、港の左側から防波堤で繋がっており、歩いて渡ることが出来る。
島全体が前方後円墳の形で、社殿後方が祭神の陵墓と云われており、
禁足の聖地だったようだ。
下宮は、宮之浦港の左手の山、「ひもろぎの山」の麓にあり、
本来の当社の中心であったが、現在の中心は中宮である。
「邊都宮」「地の宮」とも呼ばれ、倉庫・武器庫の名残とされている。
中宮は、野子町の中心、志々山の中腹にある。
19号線から山中へ続く道を進み、阿弥陀寺脇に入口の鳥居。
そこから登りの参道が数百mつづく。現在の当社の中心。
山道だが、参道は広く、歩きやすい。
上宮は、志々伎山(347m)の山頂にあり、石祠がある。
中宮参道からさらに、山中へ入る。
途中から、道が狭くなり、山頂近くでは、少しだが岩場を登る。
その先は、行ってないのでわからないが。
式内社・志々伎神社に比定される古社。
景行天皇の筑紫巡幸の際に、宮之浦の「志式島行宮」に滞在し、
大値加・小値賀という賊を退治したとある。
(風土記では大近の大耳・小近の垂耳という土蜘蛛)
祭神の十城別命は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。
神功皇后の三韓征伐に軍大将として参加し、
凱旋後は、警備のため、当地に駐留した。
別名・松浦明神。
中宮へは、阿弥陀寺の横の鳥居から、参道が続く。
参道は、わりと広く歩きやすい道。
木々が茂って、日陰になっており、やや暗いのだが。
拝殿には施錠されておらず、拝殿内に由緒等が置いている。
賽銭箱には、「三つ星」の紋がついていた。
鳥居には、「志志伎神社」とあるが、拝殿の額には「志自伎神社」。
参道入口の鳥居 | 参道階段 |
参道鳥居 | 参道 |
社殿 |
本殿 | 本殿 |
延喜式内社 志々伎神社 中津宮
志々伎山信仰の中心社で山中 史跡多く四十九年県文化財の指定を受ける。 −拝殿内案内− |
中宮から上宮への道は狭い山道だが、険しい道ではない。
志々伎山も347mと低いのだ。ただ、蜘蛛の巣や蜂には、注意。
僕は2・3箇所で、大きな蜂に接近され、上宮を断念した。
頭上で、ホバリング状態で監視体制にあった蜂が、
威嚇のために接近して来たのだ。
初めは無視して、スタスタと歩き続けたら居なくなったが、
最後の岩場では、歩き続ける事が出来ず、蜂の接近で、
一時退却。水分を補給し、しばらく待って、羽音が消えた頃、
再度、岩に取り付くが、何処からか、また蜂が接近してくるのだ。
それを数回繰り返したが、結局、それ以上進むのをやめてしまった。
無念。
上宮は、志々伎山山頂にある石祠で、中宮から上宮への道の途中には、
「腰掛石」「稚児の塔」「逆矢の竹」「力石」などの史跡があるらしい。
蜂に襲われ、断念したので、上宮の写真はないのだ。
志々伎山山頂は玄武岩で、狭い場所らしい。
上宮参道入口 |
志々伎山、347m |
沖都宮は、宮之浦港にある小島にある。
港の左突き当たりから防波堤で繋がっている。
沖ノ島 |
鳥居 | 社殿 |
沖都宮 志々伎神社御本社
第十五代 応神天皇の叔父君に当る。 由緒 神功皇后、三韓征伐に軍大将と して参加し凱旋の帰途 護国の大任を 果す為この地に駐剳され住居を構えた。 命薨去後 霊を祀った。 島全体が前方後円墳の形で社殿裏山の 丘は命の陵墓とも伝えられる。 嵯峨天皇弘仁二年(八一一)十月朔日朝廷より 木像の御神体が安鎮せられた。 陽成天皇元慶元年(八七七)九月廿五日勅使 参向の儀式があり其後毎歳二月四日祈年祭が 斎行されたが遠国なる故肥前国の長官が 神祇官の例に準じて散斎三日致斎一日の 大祭が執行されていたが明治維新後は 中絶となる。 −拝殿内案内− |
下宮(邊都宮)は、宮之浦左岸の山麓にある。
民家の間の参道の奥。
元は、武器倉庫だったということで、社殿も倉庫の形。
景行天皇の頃は、こちらが中心だったようだが、
その後、修験道・仏教との習合によって、
志々伎山信仰へと中心が移り、現在は中宮が中心。
宮之浦左岸の山 |
鳥居 | 参道 | 本殿 |
拝殿 |
邊都宮 御祭神 十城別命が三韓警備の 為、駐剳された時この地に倉庫を建て 武具類を収納された。 命の薨去後倉庫を社殿として 祀ったと伝えられる。したがって社殿は 今尚倉庫風である。 相殿には命が親から祀った天軍社 (天忍穂耳尊)を合祀している。 明治十四年十一月縣社に指定される。 −拝殿内案内− |