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本宮八幡神社
ほんぐうはちまんじんじゃ
長崎県壱岐市勝本町本宮西触1437
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式内社 壹岐嶋壹岐郡 兵主神社 名神大
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長崎県の壱岐、勝本町にある。
勝本港の南西、山間部。
本宮にあるので、本宮八幡といい、
昔の「字」が久栄なので、久栄八幡ともいう。
海の側の山の上にあり、長い参道が続いている。
参道を歩き階段を登ると境内だが、階段横に鳥を乗せた大きな燈籠があり、
鳥居の位置からでも一際目立つ。
創祀年代は不詳。
一説には、桓武天皇延暦年中の勧請という。
本宮村の宗社であり、壱岐七社参拝の一社。
七社とは、白沙八幡・興神社・住吉神社・本宮八幡・箱崎八幡・国片主神社・聖母宮。
式内兵主神社の論社だ。
現在、兵主神社と称する式内論社が他に存在するが、
その社の査定は、江戸時代橘三喜による誤りであるとされている。
境内は、あまり広くはない。拝殿には巴紋の幕が掛かっていた。
当社への参拝の前に、手長比売神社を探していたのだが、
道をたずねた方々は皆、まず、この八幡を教えてくれた。
鳥居と参道 |
本殿 | 拝殿 |
燈籠 |
『壱岐国神名記』に「本宮村八幡宮三所、大、改以前式内、桓武天皇延暦年中一国一社八幡宮建立是也」、『壱岐国神
社帳』に「久栄八幡宮本社、古来勧請年数不知、有宝殿拝殿、定祭八月十五日、神主吉野内記」、『壱岐国神社考』に
聖母縁起を引用して「本宮八幡宮、中住吉大明神、左誉田尊、右息長帯姫尊也、神功皇后三韓退治ノ時、住吉大明神
出現アリテ神力ヲ添へ給フ故当社住吉大明神ヲ兵主神社ト号ス」、『寛政十一年巳未正月改壱岐国中人別帳』に「社領
高弐石 八幡宮 祠宮十八神道 本宮村 吉野大殿 年四十才」、『壱岐国惣図打添』に「同村(注・本宮村)宗社 八
幡宮 国中七社之内 祭日八月十五日 祭神 八幡大神 聖母大神 住吉大神 桓武天皇草創 神宝 鎮懐石 俗ニ
オハサミ石ト云 二、碇石二、高杯 唐金 三口、寛永二十年以来社領二石 毎年祭日御名代御社参 八幡大神御誕
生古跡 産屋 湯手掛松 柄杓江 箱嶋 廻石 飛礫石」、『壱岐名勝図誌』に「八幡宮 在本宮山(中略)社領二石
寄附状四通 寛永廿年正月十一日 鎮信朝臣、元禄九年正月廿六日 任朝臣、享保七年四月一日 篤信朝臣、寛延二
年十一月十八日 誠信朝臣(中略)当社ハ豊前国宇佐郡八幡を勧請す、故に当所を本宮と名つく或云、桓武天皇の御
宇、異国降伏の為一国一社を建立す(後略)、『壱岐嶋式社沿革考』に「兵主神社の旧記悉本宮村とあり、又縁起の文
に依る時は本宮村の宗社八幡宮が式内の兵主神社たる炳焉、延宝以前八幡宮を式内とし且古今御崇敬七社の其一なれ
ば小縁の社にあらず」、また同書には『兵主神社縁起』をひいて「大日本豊秋津洲西海道蓬莱伊岐国萬代之伊岐郡風早
郷本宮村兵主神社戌亥向(中略)中昔神功皇后、応神天皇為相殿奉称八幡宮」とある。『壱岐国神社書上』に「社伝旧
記に云、壱岐郷風早郷本宮邑兵主神社是也、所祭三筒男大神也、中昔神功皇后、応神夫皇を相殿に祀りて八幡宮と称
し奉る、然るに延宝四年式社改の時、川北村日吉山王社を以て兵主神社とせり」、『壱岐神社明細帖』に「長崎県第三
十大区四小区壱岐国壱岐郡本宮村 八幡神社 全島七社ノ其一ニ座テ旧平戸藩代直参ノ崇敬ノ社ナリ、但式外、有氏
子二百五十九戸、本殿桁一丈五尺九寸 梁一丈七寸、祝詞殿 桁六尺八寸 梁六尺六寸、拝殿 桁三丈一尺六寸 梁一
丈八尺六寸、但神輿殿御饌殿共、祭神 中殿 住吉大神 東殿比咩大神 西殿八幡大神 石体三座、勧請年月不詳 社
殿(ママ)旧記云、当社ハ往古ヨリ全国式内大七社ノ其一ナルヲ延宝四年式社改ノ時ヨリ式外ノ社ニナリ侍ルト云二、又云桓
武天皇御宇延暦年中為異国降伏一国一社八幡宮建立是也ト云フ、社地竪通百二十六間 横平均四十一間二合五勺 総
計五千百九十七坪半 反別壱町七反三畝七歩半 内弐千三百八十坪 七反九畝拾歩現境内 同二千八百拾七坪半 九
反三畝廿七歩半上地 但無税、造営民費、旧藩代白銀七枚寄附、旧社領現米七斗四合、式内一社手長比責神社、摂社
二社山肌神社岳山神社、末社二社浦海神社神通神社」とある。
当社は、兵主(つわものぬし)神社として創立されたが、後年、八幡神を合祀したことから兵主の名を失い八幡宮
と名乗ったようである。平戸藩政時代、祭日の藩主代参をはじめ社領二石の寄進などと藩主の信仰の厚い名社であっ
た。
−『勝本町史』− |
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