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霧島東神社
きりしまひがしじんじゃ
宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田6437
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式内社 日向國諸縣郡 霧嶋神社 |
高千穂峯の麓、御池側にある。
223号線からかなり入った場所。
境内に入ると、法栄殿がある。別名不動社。
案内板には、霧島山大権現東光坊錫杖院別当先賢祖霊社とある。
参道階段に立派な境内社があったが、社名は分からなかった。
階段を上ると、御池を見下ろす位置に朱塗り神門があり、
門前の二本の木に注連縄。
御池は霧島山中最大の火口湖。
早朝の参拝。朝の光に満ちた御池は美しかった。
神門をくぐり参道を進むと、猿田彦神社。
さらに、参道左右に門守社があり、正面に美しい社殿。
拝殿後方の本殿は、側面にガラスが嵌めこまれている。
本殿の左右に脇社があり、
右殿(向かって左)に火明尊、左殿に火酢芹尊が祀られている。
脇社の左手に、もう一つの境内社があるが、社名は不明。
参道の境内社か、この境内社が天狗堂だと思うのだが…
崇神天皇の御代の創祀と伝えられる古社。
霧島六所権現の一社。
霧島六所権現とは、
霧島神宮、狭野神社、夷守神社(霧島岑神社に合祀)、
霧島岑神社、霧島東神社、東霧島神社の六社。
明治までは、霧島東御在所両所権現社とも称された神社。
「東御在所」とは、西御在所(霧島神宮)に対する名前。
文明十八年(1484)、津島忠昌が東西両社を再興し、
東御在所を霧島岑神社の旧地の近く、祓川山上に建立した。
康保三年(966)、天台僧・性空上人によって
別当・霧島山大権現東光坊花林寺錫杖院が建立され
西の荒野とも称された。
その後、度々、噴火の災害のため、
天文十三年(1544)、東御在所は現在地に遷座されたという。
明治維新後、寺領は没収され、村社・霧島東神社と改称。
昭和九年県社に昇格した。
境内には霧島山山頂にある天之逆鉾の模型の石碑がある。
鳥居 |
法栄殿(先賢別当慰霊殿) | 法栄殿の不動 |
神龍の泉(忍穂井) | 参道の境内社 |
朝の御池 |
神門 | 門前の木 |
参道 |
猿田彦神社 | 門守社 | 門守社 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
境内左の境内社 | 脇社 | 脇社 |
天之逆鉾模型 | 境内 |
霧島東神社 旧県社 西諸県郡字原町祓川 吉都線 高原駅より南六粁 祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 天照皇大神 天忍穂耳尊 瓊々杵尊 他一三柱 例祭 一一月九日 神紋 大法輪 本殿 千鳥破風造 弁柄漆塗 境内 六五、七五七坪 末社 七社 宝物 天之逆鉾、神代の岩笛 氏子 四五○戸 崇敬者 八百人 神事と芸能 神事(旧一一月一三日)三三番の神楽あり 由緒沿革 本社は天孫降臨せる霧島山を中心として発生した所謂霧島六社の一つで、崇神天皇の御代の創立と云う。室町時代に至り島津氏この地を領するに及び、文明一六年島津忠昌本社を崇敬し、本社と霧島岑神社を東西の両社となして本社を瀬戸尾の西北半里に遷し奉った。もと東御在所大権現とも称せられ、世々社家頭取の押領司氏を祠掌とした。累代藩主の参拝代参絶ゆることなく、社領五一○余石を寄せられ、社殿の修造等は悉く藩費を以って行はれ、明治一三年霧島神宮摂社兼郷社に列し、昭和九年県社に昇格した。 −『神社名鑑』− |