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藤崎八旛宮
ふじさきはちまんぐう
熊本県熊本市中央区井川淵町
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熊本市。熊本城の東1Km。
3号線に鳥居があり、参道を東へ。白川の側に鎮座している。
熊本電鉄・藤崎宮前駅からは東へ500m。
当社は、他の八幡宮と違い、「八旛宮」の文字を用いる。
天文十一年(一五四八)後奈良天皇宸筆の勅額による。
藤原純友の乱の時、追討と九州鎮護のため、
石清水八幡宮より、宮崎庄茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請された。
鎮座の日、勅使が藤の鞭を地中に刺したところ、
芽が吹き枝葉が栄えたので、藤崎宮の名称が起った。
ということは、鎮座当日まで、社名が決まっていなかったのだろうか。
それとも、他の名称を予定していたのだろうか。
明治十年、西南の役で社殿を焼失、現社地に移転した。
小雨だったため、社殿の朱がうまく撮影できなかったが、
快晴の日は、かなり美しいとみた。
熊本総鎮守として、境内社が多いので、二頁。
3号線の鳥居から、東へ参道がつづく。
門前の店で駐車場の場所を聞いたが、無いということ。
仕方なく、参道隅に駐車して参拝。
社殿周囲に、境内社が幾つか並んでいる。
境内社は、次頁に掲載。
3号線の鳥居 |
鳥居 | 楼門 |
境内 |
拝殿 | 拝殿内 |
回廊 | 本殿 |
藤崎八旛宮 熊本市井川淵町。
旧国幣小社(現、別表神社)。社伝よると、
平将門・藤原純友の乱の時、追討と九州鎮
護との勅願によって、石清水八幡宮より分
霊を迎え、承平五年(九三五)宮崎庄の茶臼山
に奉斎したのが創祀という。勧請の時勅使
は、石清水の藤の枝を鞭として神馬を曳い
てこの地に着き、神霊の感応の地に栄える
よう鞭を立てたところ、繁茂したので祭地
を定め、藤崎と呼ぶと社名起源の伝説があ
る。石清水八幡宮を九州に勧請した五所別
宮の八幡の一つである。宮崎庄は今熊本城
のある地で、古くは国府の所在地であった。
国府八幡宮として鎮祭され、国衙の崇敬社
ともいう。延慶二年(一三○八)炎上のことが
あると、朝廷では政務を廃して慎みを表わ
し、国税による造営を行っている。宗社と
して朝野の尊敬篤く、鎌倉幕府以降、地頭
・領主ら造営につとめ、熊本城の鎮守社と
して城内に広く社域を占め、社殿も壮麗で
あった。明治一○年(一八七七)西南戦役の兵
火をうけ、城とともに諸建築は焼失してし
まった。その後社地を現在地に遷して熊本
市民の総鎮守となっている。大正四年(一九
一五)国幣小社に昇格し、昭和九年より一五
年にかけて造営を行い、本殿・中殿・拝殿
・楼門・回廊など整然と整った。朱漆を主
調とする彩色が美しい。 祭神は応神天皇・相殿に神功皇后・住吉三神を祀る。 例祭九月一五日。放生会を起 源とする古式の神幸祭を行う。随兵祭とも いい、能楽獅子や飾り馬が供奉する。神輿 は早朝社を出て、旧社地藤崎台に渡り、甲 冑、乗馬の随兵らは旗指物を立て、昔のま まの行装などを伝えている。このほか一月 九日には射去祭と呼ぶ歩射の式、一月五日 の松囃子(能楽師の囃子)の奉納なども著名 である。社宝に正和元年(一三一二)の作銘の ある僧形八幡神坐像・女神坐像は重要文化 財、中世以降の古文書類など多い。 −『神社辞典』− |
境内の摂末社など。
藤井垣社 八幡大神 社名の元となった藤の鞭だ | 武内神社 武内宿祢大臣 六所宮 賀茂・春日・松尾・稲荷・八坂・貴船 |
先師社 肥後武道先師 | 御崎社 素盞嗚尊 本宮勧請以前の地主神 | 人丸社 柿本人麿朝臣 荒人社 左中将橘能員神霊 |
日田社 鬼蔵大夫永弘・鬼監大夫永興 鬼大夫永季・三毛入野神・老松神 | 境内から楼門 |
菅原社 菅原道真公 | 三光宮 大己貴神・少彦名神 | 灰塚社 軻遇突智神 |
【 藤崎八旛宮 藤崎八幡宮 】