聖母宮
しょうもぐう
長崎県壱岐市勝本町勝本浦553

壱岐の勝本町、勝本港にある。港の西側。
参拝当日は、社殿の建替え作業中で、
境内には作業車や、足場、そして作業の人々でいっぱいだった。
現在は、すでに完了しているはずだ。
ということで、まともな写真が取れなかった。残念。
参道には、神功皇后の乗馬の足跡が残っているという馬蹄石がある。
『神社考』では、式内・手長姫神社に比定され、
延宝4年の橘三喜の査定では、式内・中津神社とされた。
勝本の地名は、神功皇后が、三韓出兵の出発地として風本と名づけたのを
凱旋時に、戦勝を祝して、勝本としたという由来。
当社は、神功皇后の行宮跡とされ、
その後、海から光る物が上がってくるという出来事により
神功皇后を祀ったといわれる。
また、三韓からの凱旋時に、敵の首101500を
この浜に埋めたとも。
なかなか、怖い伝承が残っている神社だ。
壱岐七社参拝の一社。
七社とは、白沙八幡・興神社・住吉神社・本宮八幡・箱崎八幡・国片主神社・聖母宮。
鳥居
 | 参道
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工事中の社殿
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工事中の境内
 | 稲荷社
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馬蹄石
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聖母宮
| 旧号 | 香椎大明神 聖母大菩薩 |
| 鎮座地 | 壱岐郡勝本町勝本浦正村 |
| 祭神 | 息長足姫尊(神功皇后) 足仲彦尊(仲哀天皇) 誉田別尊(応神天皇) 住吉大神 |
| 配祀 | 天照大神 |
由緒
『壱岐名勝図誌』によると、仲哀天皇の九年神功皇后は
肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐
に向けて三、二七〇艘の軍船を出発させた。
この時、船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめた土器崎の地を風本と名づけ
東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。
壱岐すなわち風早の島についた皇后は風まちをして対馬の鰐津に向けて
出帆した地を風本と名づけ、三韓からの帰りに再び立ち寄られ出兵の勝利
を祝い勝本を改められたという。
皇后は、出兵の往来にさいし行宮を勝本に建てられたが、御殿は
その後放置されてしまった。
しかし毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので
里人は鏡を御殿に納めて神功皇后を神としてしまつったのがこの神社で
あると伝う。
また、一説には異敵の首一〇一、五〇〇を持ち帰った皇后は、風本の
浜に穴に掘って埋められ、九町八反の築地を一夜で築きその上に
宝殿をつくり、聖母の社を建てられたとある。
文化財 昭和四十七年に長崎県指定有形文化財とされた茶壺が有名
壺の銅部に『進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、御神物ちや
いれ、是ヲ心サス、喜斉、百良内村生、宗靏沙門(花押)
天正廿年 敬白』の銘がある。
その他に数多くの文化財が伝えられているが神社の西門と南門は豊臣
秀吉の朝鮮出兵の折りに、加藤清正と鍋島直茂によって造営寄進
されたと伝えている。
この西門(正門)の前方には、神功皇后の御乗馬の足跡がのこると
いう馬蹄石がある。
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−境内案内−
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